曽野話法 - 砂上論法を斬る(8)
私は別、私の知り合いも別
曽野話法の最大の武器は人攻めであり、その鋭さをこれまで見て来た。しかし、その鋭さは論理ではなく、曽野綾子氏自身を棚上げにすることで可能になっている。
これまで何度か取り上げた「引用」を例にとって示そう。まず、本連載(4)でとりあげた太田・曽野論争から。赤松大尉に会った曽野氏が「『悪人とは思えない』との印象を受けた」と太田氏が書いたことに対して、曽野氏は言ってもいないことを『 』で引用されては迷惑だと噛みついた。批判に対して太田氏は、「ある神話の背景」の一節の趣旨を記載しただけと釈明した。
くだんの一節は「赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目にふれる限り、彼は完璧に悪玉であった。その実物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた」である。
人々の感想の形をとっているが曽野氏も同様だったろうと推認されるので、太田氏の釈明は納得できるものである。しかし、引用の二形態 -字句どおりの引用か要旨の引用- からは逸脱している。実際の論争では、太田氏は「もし曽野氏が『悪人とは思えない』と思っていなかったのなら、どう思っていたのか」と切り返しているが、曽野氏が引用に厳格な人物とすると、押され気味である。
では、曽野氏は引用に厳格な人なのか。もちろん曽野氏はそう振舞っている。インタビューの聞き取り不明箇所を「○○(一語不明)」と表記したり、資料に厳格であると公言(大阪新聞2002/2/19)したりしている。だが実際は、非常に杜撰、否、むしろ悪質ですらある。
「ある神話の背景」に、赤松嘉次氏が1970 年3 月26 日、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄を訪れたときに、那覇空港で大規模な抗議デモにでくわす場面がある。この時の状況を曽野氏は沖縄の新聞である沖縄タイムスと琉球新報を引用しつつ記述している。
原文の「赤松氏は黒のレーンコートに身を包みショルダーバッグと清酒一本を下げた軽いいでたちだったが、タラップを降りて…」を、「赤松元大尉は、黒のレインコートにショルダ-バッグをかけ、清酒一本を下げて軽軽と日航機から下り立つ」と改めている。これで、原文の「服装が軽かった」を、「心の中が軽かった」に変えた。また、抗議のデモ隊のシュプレヒコール「赤松帰れ」「人殺し帰れ」に「!」をつけて、「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」に改めた。これで、デモ隊は尋常一様でない集団という印象が作られた。これらはミスというより、意図的であろう。
次の例では悪質さがさらにはっきりする。大江健三郎氏の「沖縄ノート」の一節を
次に本連載(3)の佐高・曽野論争における引用の捏造を取りあげよう。言った覚えのない「三島由起夫の家」を引用したことに対し、曽野氏は佐高氏を「推測で憎悪をかき立てるアジテーター」と非難した。
では、曽野氏はどうなのか。渡嘉敷島の集団自決事件でのポイントのひとつは「自決用の手榴弾がどうして住民の手に渡ったのか」である。曽野氏は赤松氏との対談で
曽野氏の恣意的な引用はこれにとどまらない。原文の一部を省略して、意味を変えてしまうという芸当もするのである。赤松隊の士気が高かったことを示すとして、米軍の公刊戦史の一節を引く。
曽野氏は、自分の胸に手を当ててみれば、他人の引用の不適切性を指弾することなど出来ないはずである。
曽野話法の最大の武器は人攻めであり、その鋭さをこれまで見て来た。しかし、その鋭さは論理ではなく、曽野綾子氏自身を棚上げにすることで可能になっている。
これまで何度か取り上げた「引用」を例にとって示そう。まず、本連載(4)でとりあげた太田・曽野論争から。赤松大尉に会った曽野氏が「『悪人とは思えない』との印象を受けた」と太田氏が書いたことに対して、曽野氏は言ってもいないことを『 』で引用されては迷惑だと噛みついた。批判に対して太田氏は、「ある神話の背景」の一節の趣旨を記載しただけと釈明した。
くだんの一節は「赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目にふれる限り、彼は完璧に悪玉であった。その実物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた」である。
人々の感想の形をとっているが曽野氏も同様だったろうと推認されるので、太田氏の釈明は納得できるものである。しかし、引用の二形態 -字句どおりの引用か要旨の引用- からは逸脱している。実際の論争では、太田氏は「もし曽野氏が『悪人とは思えない』と思っていなかったのなら、どう思っていたのか」と切り返しているが、曽野氏が引用に厳格な人物とすると、押され気味である。
では、曽野氏は引用に厳格な人なのか。もちろん曽野氏はそう振舞っている。インタビューの聞き取り不明箇所を「○○(一語不明)」と表記したり、資料に厳格であると公言(大阪新聞2002/2/19)したりしている。だが実際は、非常に杜撰、否、むしろ悪質ですらある。
「ある神話の背景」に、赤松嘉次氏が1970 年3 月26 日、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄を訪れたときに、那覇空港で大規模な抗議デモにでくわす場面がある。この時の状況を曽野氏は沖縄の新聞である沖縄タイムスと琉球新報を引用しつつ記述している。
原文の「赤松氏は黒のレーンコートに身を包みショルダーバッグと清酒一本を下げた軽いいでたちだったが、タラップを降りて…」を、「赤松元大尉は、黒のレインコートにショルダ-バッグをかけ、清酒一本を下げて軽軽と日航機から下り立つ」と改めている。これで、原文の「服装が軽かった」を、「心の中が軽かった」に変えた。また、抗議のデモ隊のシュプレヒコール「赤松帰れ」「人殺し帰れ」に「!」をつけて、「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」に改めた。これで、デモ隊は尋常一様でない集団という印象が作られた。これらはミスというより、意図的であろう。
次の例では悪質さがさらにはっきりする。大江健三郎氏の「沖縄ノート」の一節を
と引用し、第 34 回司法制度改革審議会(2000.10.16)で曽野氏は、「『赤松氏をあまりにも巨きい罪の巨塊』と表現した」として大江健三郎氏を非難した。ところが、引用の最後の…を省かずに引用すると、慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)
であり、かれ(赤松氏)自身が「あまりに巨きい罪の巨塊」ということは文法的に有り得ないことが分かる。意図的に誤読するような引用をしたと言われても仕方あるまい。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。
次に本連載(3)の佐高・曽野論争における引用の捏造を取りあげよう。言った覚えのない「三島由起夫の家」を引用したことに対し、曽野氏は佐高氏を「推測で憎悪をかき立てるアジテーター」と非難した。
では、曽野氏はどうなのか。渡嘉敷島の集団自決事件でのポイントのひとつは「自決用の手榴弾がどうして住民の手に渡ったのか」である。曽野氏は赤松氏との対談で
と鍵となる質問をしたことが、「ある神話の背景」に書かれている。ところが、この質問は、雑誌連載時には無かったのである。つまり、曽野氏は存在しなかった発言を単行本化の段階で付け加えたことになる。問題の本質に関わる事項であり、佐高氏のそれに比してはるかに悪質である。自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方がありませんね
曽野氏の恣意的な引用はこれにとどまらない。原文の一部を省略して、意味を変えてしまうという芸当もするのである。赤松隊の士気が高かったことを示すとして、米軍の公刊戦史の一節を引く。
この(中略)がくせ者である。ここには渡嘉敷島では二世部隊や日本軍捕虜の将兵たちが、指揮官と交渉したが、指揮官は、彼の守備隊三百の将兵の降伏を拒んだ。(中略)幾月かたってのち、この指揮官は、天皇の終戦の詔勅の写しを与えられて初めて降伏した。しかもあと十年間は保てた、と豪語していたのである
と書いてある。赤松隊は、士気が高いどころか、戦意を喪失して遊兵化していたのである。しかし、この指揮官は、米軍が山腹の日本軍陣地から離れているかぎりなら、べつに米人が渡嘉敷ビーチで泳いでいてもさしつかえない、といったのである。
曽野氏は、自分の胸に手を当ててみれば、他人の引用の不適切性を指弾することなど出来ないはずである。
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