どてらい男の沖縄戦
「どてらい男(どてらいやつ)」は紀州弁で「凄いやつ」を意味し、大阪の商社山善の創業者、山本猛夫氏の立志伝を描いた花登筐の小説のタイトルである。最初『週刊アサヒ芸能』に連載されたが、後に、歌手の西郷輝彦を主役としてテレビドラマ化され、大好評を博した。この「どてらい男」は戦時中、沖縄県の渡嘉敷島にいた。あの集団自決の起きた島である。
山本猛夫氏は1921年福井県に生まれ、14歳のとき上阪し前田商店に勤めた。商売人になるにも学問が必要だと考え、大阪市立西区商業の夜間部に通って勉学に励んだ。21歳のときに福井県鯖江で1回目の召集を受けたが、2年前に肋膜炎を患ったことが幸いして召集解除。しかし、2年後の1944年6月に敦賀で2回目の召集を受けた時は病気を口実にすることができず、同年9月はじめに広島県宇品を出港、月末に渡嘉敷島に送り込まれた。
渡嘉敷島に配備されていた部隊は、海上挺進第3戦隊とよばれる部隊である。マルレとよばれるボートに爆雷を積んで、敵輸送船の至近距離で爆雷を投下・退避するのを任務としていた。これに加えて島には支援の基地隊も駐屯しており、マルレの秘匿壕の掘削、マルレ出撃時の舟出し業務を担当した。山本二等兵は基地隊の一員であった。
小説では、マルレ部隊が全滅したため主人公(山本猛造)がマルレに乗って出撃する武勇伝が語られる。もちろん、小説なのでフィクションを含むことは差し支えない。しかし雑誌『財界』(1965.8.15号)で体験談として語れば話は別である。いくら仲間内の雑誌とはいえ、かくまでもという程に出鱈目なのである。
たとえば、出撃のくだりは次のようである。山本一等兵は、戦友二人とマルレで出撃、敵巡洋艦に体当たり。山本一等兵は意識を失い、気がついたときは一万トン級の巡洋艦が大きな渦と共に没して行くところであった。戦友二人は即死であった。
実際には、渡嘉敷島では、マルレは一隻たりとも出撃せず、もちろん戦果はゼロ。そもそもマルレで巡洋艦を撃沈することは物理的に不可能で、装甲の弱い輸送船が精々だった。また、マルレを操縦する隊員は特別に養成されており、基地隊員がその代わりをすることはあり得ない。これ以外にも荒唐無稽なことが沢山書かれている。沖縄戦でのマルレ部隊の戦闘状況が判明したのは、防衛庁の公刊戦史『沖縄方面陸軍作戦』(1968年)が刊行されて以降である。上記の体験談を語った1965年当時は、何を言っても関係者以外には嘘がバレない状況であった。
次に山本氏が登場するのは1971年12月号の『週刊ポスト』である。ここでは、マルレ出撃の武勇伝を削るなど、『財界』のときとガラリと記述を変えた。戦闘状況に関する記述は概ね正確で、部隊の装備が重機関銃2、軽機関銃6など、公刊戦史を参照したのではないかと思われる節もある。もっとも、山本二等兵と共に斬込隊の一員として爆雷を抱いて戦死したマルレ隊員は赤松隊の『戦(病)死概況調査簿』に見当たらず、細部は依然としてかなりのフィクションを含むと見られる。
『週刊ポスト』の主たる関心事は、「集団自決が軍の命令で行われた、という話まで残ったほどである」と『財界』に無かった一文が入ったことから分かる様に、集団自決である。前年3月に赤松元隊長が渡嘉敷島の慰霊祭に出席しようとしたところ、沖縄での反対運動により追い返されるという事件が発生、集団自決への軍の関与が社会問題化したことが背景にあった。
雑誌『財界』でのホラ話は山本氏の資質によるものだろう。それでも、集団自決が社会問題化した時点での『週刊ポスト』では、大筋において正確な事を語っている。この例から、手記や証言等を単独で価値判断するのは危険で、その背景、前後の流れをよく見極める必要があることがわかる。
もちろん、こんなことは改めて述べるのも気恥ずかしいくらい当然の話である。しかし、この当然のことを守らなかった著名作家がいる。『ある神話の背景』(後に『集団自決の真実』と改題)を書いた曽野綾子氏である。赤松隊長の関与が大きく取りあげられた後に編集された赤松隊陣中日誌を無批判に採用したほか、以前の流れを無視して赤松氏を始めとする関係者の証言を取り上げた。後に日誌は大規模に改竄されていたことが判明し、赤松証言の矛盾が大江・岩波裁判で指摘されるに至った。
なお、本ブログを書くに当たりハンドルネーム阪神氏の投稿を参考にした。
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