沖縄戦にスパイはいたのか?
「スパイ」は便利な言葉である。ほとんどあらゆる不具合はそれで説明出来てしまうからである。この誘惑を断ち切る事がいかに難しいか、一例を挙げよう。苦戦が続くニューギニア戦線のテコ入れを図るべく、1944年4月から竹輸送と呼ばれる一連の輸送作戦が行われる事になった。その初回、これまで使ったことのない航路だったにも関わらず潜水艦の待ち伏せ攻撃に遭い、大損害を蒙った。衝撃を受けた軍は中継地だったマニラへ海軍参謀を派遣、原因調査を行った。しかし、真っ先に疑うべき暗号解読を考慮の外に置き、港湾労働者に潜入したスパイによる通報を原因と結論づけた。冷静な情報分析が可能な時期でもこの有様だから、住民を大規模に巻き込んだ沖縄戦は推して知るべしである。
スパイ事件の確たる証拠がなかったことに関しては、日本軍の最高幹部の証言がある。第32軍の沖縄作戦を仕切った八原博通高級参謀は
と言っている。また、長勇参謀長の個人秘書で、いわば裏作戦を知る立場にあった島田アキラはスパイ事件はときどきあった。二世が潜水艦や落下傘で、沖縄島に上陸して活動しているとか、軍の電話線を切断する奴とか、どこそこの女スパイのように、火光信号をもって敵と相通じるとか。しかしこれまで真犯人はついぞ捕えられたことはなかった。
と述べている。奇妙なことに、日本兵は、米軍により沖縄人がスパイや日本軍前線後方で諜報員として利用されていると信じていた。スパイの容疑をかけられたものたちは、素人の尋問官、それには自分(注 島田)も含めてだが軍司令部に逮捕されたり尋問を受けたりした。しかし、それを立証できるものは何一つなかった。
米国側の機密解除資料もこれと整合的である。保坂廣志氏の調査により次のことが判明した(『日本軍の暗号作戦』と『沖縄戦下の日米インテリジェンス』)。米軍では、1944年11月頃、沖縄上陸作戦と呼応してハワイなどで捕虜となっている民間人を沖縄に上陸させる計画があったが、信頼できる人員の調達が困難なことや、仮に日本軍にスパイとして捕まれば銃殺になる等の理由から取りやめとなった。航空偵察のほか、日本軍暗号の解読、日本兵捕虜などの代替手段があるため、あえてリスクのある民間人スパイの活用は見送ったものと見られる。
スパイ冤罪事件が多発した背景には、まず、言葉の問題があった。第32軍司令部の開設とほぼ同時に沖縄語使用者はスパイとみなし処分するとの厳命が下された。緊急時には住民同士は沖縄語を使用しただろうから、それだけでスパイ判定されてしまうことになる。かくて、沖縄南部で民間人・兵士が混在・混住した 1945 年 5 月末からは、風声鶴唳よろしく、沖縄人スパイ説が戦場で猛威を振るうことになった。また、苛烈な戦闘下で精神に異常を来たした人が多数発生し、スパイ扱いされた。精神トラブルがあればスパイはそもそも勤まらないと考えるのが常識であるが、常識が狂気に置き換わるのが戦争のおぞましい現実で、私刑同然に惨殺されている(保坂廣志著『沖縄戦のトラウマ』)。
戦闘による混乱がなければスパイ事件は生じなかったとはいえない。渡嘉敷島では、沖縄本島とは違い米軍が上陸してきた3月末など一部の期間をのぞけば平穏であった。それでも3月28日の集団自決事件以外にも13人の住民が処刑されている。多くは6月25日から10日間に発生している。6月25日には本島の第32軍の消滅を伝える大本営発表があり、30日には指揮下の朝鮮人軍夫が大量脱走してしていることから、これらに伴うパニックと見られる。隊長の資質によるかもしれないが、容易くパニックを起こしたことは記憶されてよい。
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