曽野話法 − 砂上論法を斬る(12)
経験は重い、私の経験は絶対的に重い(2)
相手に「私の経験は絶対的に重い」ことを認めさせる曽野綾子氏の切り札は、普通の人にはまねのできない経験である。素材は、聖書、アフリカ、アラブ、セレブ。
日本におけるカトリック教徒は少ない。カトリック中央協議会がまとめた『カトリック教会現勢2013』によれば、2013年末時点でのカトリック信者(洗礼を受けた一般信者+聖職者)は44万4719人で、総人口1億2837万人に占める割合は0.3%程度である。だから曽野氏が聖書を引いて議論を展開すれば、大多数の日本人はそういうものかと思ってしまう。
アフリカを知る人は更に少ない。少し古くなるが、外務省が2008年洞爺湖サミットに提出した資料「アフリカの現状と日本・アフリカ関係」によれば、2005年10月1日現在の在留邦人数は6,069人、2005年邦人旅行者数は13万9874人である。これらの在留邦人の大部分は居住環境のよい地域にいるだろうし、旅行者はいわゆる観光地しか見ていないだろう。曽野氏がテリトリーとするアフリカの貧困地域を見た人はほんのわずかと見られる。
したがって、聖書とアフリカ、この2つのフィルターを通せば、曽野氏の右に出る人は殆どいない事になる。前回紹介した、司法制度改革審議会でも、さほど多くない発言の中に
感心するのは曽野氏が芸域を広げる努力を怠らないことである。アラブの格言も自家薬籠中のものとしつつあるようだ。
さらに、我々庶民との差を決定的にするのが、日記形式のエッセイ等に綴られたセレブとの華麗な交流である。極め付けは皇后陛下である。曽野氏は聖心女子大で美智子皇后の3年先輩にあたる。
さて、問題にすべきは、これら「聖書、アフリカ、アラブ、セレブ」が通常の許容範囲を越えて使われている、つまり曽野話法の弱点をカモフラージュする手段になっているのではないかという点だ。
たとえばカトリックを考えて見よう。カトリック教徒の雑誌「聖母の騎士」に曽野氏が寄せた文章(日本財団のサイト)は、我々一般人がカトリック教徒に対して持つイメージからそれほど逸脱してはいない。ところが、一般向けでは様相が一変する。産経コラムのアパルトヘイト騒動や、出産したら会社を辞めろ(週刊現代2013.8.31)、東日本大震災の被災者が甘えている(週刊ポスト2014.3.21)等の発言や、毎年8月15日の夫妻揃って靖国神社の参拝など、枚挙に暇がない。これらをカトリック教徒は是認しているのだろうか?
やはり否のようだ。カトリック組織は、靖国参拝に反対しているし、日本の貧困者や震災の弱者は甘えているという曽野氏とは正反対の認識を持っている(週刊金曜日の曽野氏の特集号(2014.1.23))。
それだけではない、論理もおかしいことがある。たとえば、曽野氏は、渡嘉敷島の集団自決は、紀元66年に起こったユダヤ人の対ローマ反乱の最後の拠点となったマサダの集団自決に比肩すべき尊い事件だと強調する。しかし、マサダでは指揮官以下全員が名誉を重んじて自決したとされているが、渡嘉敷島で自決したのは住民だけである。さらに、渡嘉敷島の指揮官は米軍放送を聞いてさっさと停戦交渉に応じ、戦後に集団自決が社会問題化した時には、陣中日誌を改竄して自己の立場を正当化しようとしたのだ。どうして両者を同一視できるというのか。
相手に「私の経験は絶対的に重い」ことを認めさせる曽野綾子氏の切り札は、普通の人にはまねのできない経験である。素材は、聖書、アフリカ、アラブ、セレブ。
日本におけるカトリック教徒は少ない。カトリック中央協議会がまとめた『カトリック教会現勢2013』によれば、2013年末時点でのカトリック信者(洗礼を受けた一般信者+聖職者)は44万4719人で、総人口1億2837万人に占める割合は0.3%程度である。だから曽野氏が聖書を引いて議論を展開すれば、大多数の日本人はそういうものかと思ってしまう。
アフリカを知る人は更に少ない。少し古くなるが、外務省が2008年洞爺湖サミットに提出した資料「アフリカの現状と日本・アフリカ関係」によれば、2005年10月1日現在の在留邦人数は6,069人、2005年邦人旅行者数は13万9874人である。これらの在留邦人の大部分は居住環境のよい地域にいるだろうし、旅行者はいわゆる観光地しか見ていないだろう。曽野氏がテリトリーとするアフリカの貧困地域を見た人はほんのわずかと見られる。
したがって、聖書とアフリカ、この2つのフィルターを通せば、曽野氏の右に出る人は殆どいない事になる。前回紹介した、司法制度改革審議会でも、さほど多くない発言の中に
と聖書をしっかり引用しているし、先ほど自由と正義ということをおっしゃいました。どちらも非常に恐ろしい言葉でございます。これは考えがいろいろございまして、キリスト教の方の一つの表現でございますが、イザヤ書64・5には「すべてわれわれの正義は汚れた下着にほかならない」という言い方さえあります
と誇らしげに数を披露している。私はアフリカによく参りますが、仕事上、今までのところで108か国、参りました
感心するのは曽野氏が芸域を広げる努力を怠らないことである。アラブの格言も自家薬籠中のものとしつつあるようだ。
では品がないが、わしは明日の一千万より、今日の一万円主義や (四代目工藤會総裁・溝下秀男氏の言とされる)
と書けば香り高い。アラブのことわざに、『明日のメンドリより今日のヒヨコ』というのがあった(大阪新聞1997.12.02)
さらに、我々庶民との差を決定的にするのが、日記形式のエッセイ等に綴られたセレブとの華麗な交流である。極め付けは皇后陛下である。曽野氏は聖心女子大で美智子皇后の3年先輩にあたる。
と、単なる職務上の儀礼関係にとどまらないことを、曽野氏はさりげなく?示す。天皇・皇后両陛下に個人的なお茶を賜る(サンデー毎日1997.4.20)
皇后陛下のごくうちうちの誕生お茶会に出席した(大阪新聞1998.10.26)
さて、問題にすべきは、これら「聖書、アフリカ、アラブ、セレブ」が通常の許容範囲を越えて使われている、つまり曽野話法の弱点をカモフラージュする手段になっているのではないかという点だ。
たとえばカトリックを考えて見よう。カトリック教徒の雑誌「聖母の騎士」に曽野氏が寄せた文章(日本財団のサイト)は、我々一般人がカトリック教徒に対して持つイメージからそれほど逸脱してはいない。ところが、一般向けでは様相が一変する。産経コラムのアパルトヘイト騒動や、出産したら会社を辞めろ(週刊現代2013.8.31)、東日本大震災の被災者が甘えている(週刊ポスト2014.3.21)等の発言や、毎年8月15日の夫妻揃って靖国神社の参拝など、枚挙に暇がない。これらをカトリック教徒は是認しているのだろうか?
やはり否のようだ。カトリック組織は、靖国参拝に反対しているし、日本の貧困者や震災の弱者は甘えているという曽野氏とは正反対の認識を持っている(週刊金曜日の曽野氏の特集号(2014.1.23))。
それだけではない、論理もおかしいことがある。たとえば、曽野氏は、渡嘉敷島の集団自決は、紀元66年に起こったユダヤ人の対ローマ反乱の最後の拠点となったマサダの集団自決に比肩すべき尊い事件だと強調する。しかし、マサダでは指揮官以下全員が名誉を重んじて自決したとされているが、渡嘉敷島で自決したのは住民だけである。さらに、渡嘉敷島の指揮官は米軍放送を聞いてさっさと停戦交渉に応じ、戦後に集団自決が社会問題化した時には、陣中日誌を改竄して自己の立場を正当化しようとしたのだ。どうして両者を同一視できるというのか。
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