曽野話法 − 砂上論法を斬る(15)
曽野綾子氏が聖書の一節を引用しても多くはアクセサリーだが、神を切り札的に使用することがある。神を持ち出して、全てを相対化した後に自説を述べるのである。
まず、「ある神話の背景」から例をとろう。大江健三郎氏の「沖縄ノート」の一節を批判した箇所である。
「沖縄ノート」の否定に「神」を持ち出した。この後にこのような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。
第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかったからである。
第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。
と続け、ひっくり返してしまう。私は、赤松隊長が正しかったというわけでもなく、三百余人の人々が死んだ事実を軽視するものではない。しかし、三百人はタダでは死なない。かりに一人の隊長が自決を命じても、その背後にある心理がなければ、人々は殺されるまで死なないことを、私は肌で感じて知っているように思う。それが人間の本性である。
ここで、あたかも巫女が神託を告げるように断定するのがポイントである。
ところで、前段「神のみぞ知る」と後段「私はかく述べる」は論理的には何のつながりも無い。実際、上記の例では、後段を正反対にできる:
私は、赤松隊長が行動を誤ったというわけでもなく、三百余人の人々が死んだ事件を特別視するものではない。しかし、三百人がたやすく死んでしまうことはある。もし一人の隊長が自決を命じたとしたら、その背後に特段の心理がなくとも、人々は死を選ぶことを、私は肌で感じて知っているように思う。それが軍国日本の現実であった。
次に、小泉首相が靖国神社を参拝したことに関する産経のコラム(2003.1.24)から。
とし、これに続けて、…聖書には「裁きは神に任せなさい」と書いてある。…だから、精神と心の問題に関する裁きは、神に任せるということなのである。
とする。これも同じパターンであるが、後段の論理的必然性は無い。正反対の総理はA級戦犯だけを拝みに行かれたわけではない。むしろA級戦犯はほんの一握りの人たちだ。「英霊」の99パーセントは戦争の犠牲者である。とすれば、悲惨な戦争を回避する決意を新たにするために、靖国神社に参られても少しも不自然はない。
も同様に可能である。総理はA級戦犯だけを拝みに行かれたわけではないであろう。しかし、死を命じたA級戦犯を残り99パーセントの戦争犠牲者と同等に扱うことはできない。とすれば、悲惨な戦争を回避する決意を新たにするために、靖国神社に参るのは全く不適切と言わざるをえない。
仮に「神のみが真実を知り、神のみが裁くことが出来る」をキリスト教徒でない人間も認めたとしても、神はどう考えているか分からないわけだから、その後の文は、曽野氏のきままな感想でしかないのである。