曽野話法 − 砂上論法を斬る(16)
神のみぞ知るものに他人の心中がある。曽野話法を使えば、窮地に陥った人を「ああ見えても心の中では」と救い出すことができる。
本ブログでおなじみの、渡嘉敷島の集団自決事件の赤松嘉次氏に登場願おう。赤松氏は、
と殊勝に述べることもあるが、一方で私の知らなかったことが大部分だが、自決事件を含めてすべて隊長であった私に責任があると考える(沖縄タイムス1970.3.30)
と公言して憚らない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。(琉球新報1968.4.8)
赤松隊には集団自決事件以外に、住民処刑事件があり13名が犠牲になっている。赤松氏は島の最高指揮官であるから、知らなかったでは済まされないのだが、のらりくらりである。最初は
としていたが、曽野氏には私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ(琉球新報1968.4.8)
と語った。渡嘉敷村長(玉井喜八氏、戦時中は島に不在)が、赤松氏に男三名は、通敵の恐れがあるので、私が処刑を命じました(『ある神話の背景』)
とつめよったら、赤松氏はなぜ、終戦になってから自分の家族を捜しに山に登ったものまで斬ったのか
と名前を挙げて部下に責任を押し付ける始末だ(渡嘉敷村史、手記)。あれは、ぼくじゃない、**大尉が命令して○○が斬ったようだ
これではちょっと庇いようがないと思われるが、それを
としれっと言ってのけるのが曽野氏である。赤松氏の評価に関して、公平を期す為に、大江・岩波裁判での裁判所の判断を紹介しておこう。赤松氏は、どのような戦後を生きたか。赤松氏ばかりではない。あの事件に、多かれ少かれ、戦争責任の雛型を感じたものは、誰に問い詰められなくても、それぞれに内面でその答を出して行くのである。(『ある神話の背景』)
なお、裁判の時点で明らかになっていなかったこととして、赤松氏が自己弁護の為に用意した赤松隊の陣中日誌の実態がある。この日誌は原本を大規模に改竄した捏造本と言っていいくらいの代物だったことが後に判明した。赤松手記は、自己に対する批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である。
次に、「中央公論」(1998.12.1)での、ジャーナリスト田原総一郎氏との対談から。戦時中のカトリックに関して次の様に述べている。
見かけは屈した様に見えても、実はそうではないというわけだが、そうあっさり言い切れるものか。「生きて二度と再び祖国に帰らない」という決意で日本に来た修道女に。彼女たちは戦争中は静かに日本の軍部に屈しませんでした。御真影にお辞儀をしましたし、神社の掃除にも行きましたけれど、屈したわけではない。シスターたちはそういう徳をもっていました。
松浦総三・明石博隆『昭和特高弾圧史』(太平出版社)によると、天皇の神格否定や神宮・神社参拝の拒否・神棚設置に対する反対で弾圧された宗教団体に大本教、天理教、創価教育学会、キリスト教関係ではホーリネス系教会等がある。屈したと見られても仕方あるまい。
さて、「神のみぞ知る」と「私はかく述べる」に論理的関係はないことを前回述べた。同様に「ああ見えても心の中では」と心中を慮るかどうかの判断は神がするのではない。曽野氏が執り行なう。この選にもれれば容赦ない鉄槌が下される。
大阪府知事横山ノック氏のセクハラ事件で、セクハラを受けた選挙運動員の女子大生が裁判に訴えた。曽野氏は
と非難した(毎日新聞1999.11.7)。あまりのことに頭の中が真っ白になったであろう若い女性の心中など一顧だにせずに。この女性も人里離れたところにいたのではないのだから、『キャア』と叫んでその場で大騒ぎができたはずだ
他人の心中は、いかに曽野氏でも推し量るしかないが、自身となれば別である。「私の心中がどうしてあなたに分かるのか、私の真意はそこにない。そういう解釈をする受け手のナイーブさが悪い」と開き直る。産経新聞の「アパルトヘイト容認?コラム」事件はその典型である(顛末は拙コラム1,6,7参照)。
かくて神を味方につけ、曽野氏の無敵の進撃は続く。