曽野話法 − 砂上論法を斬る(17)
後出し
本連載には、話法と論法の2つのキーワードがある。両者は一体不可分といっても良いのだが、強いて言えば、話法には全体的な構成、論法には局所的な展開という意味を持たせている。これまでで曽野話法を概ね紹介し終ったので、これから論法に焦点をあてることにする。論法と言えばいわゆる詭弁テクニックが想起されるが、曽野オリジナルはないものの、彼女なりの工夫がある。まず、「後出し」から始めよう。
「彼は仕事が出来たが、女性関係がだらしなかった」と「彼は女性関係がだらしなかったが、仕事が出来た」を比べてみよう。言っていることは「仕事が出来た」と「女性関係がだらしなかった」という2つの属性を彼が所有しているということだけであるが、2つの文章から受ける印象はまるで違う。前者は「しようがない奴」であるのに対し、後者は「出来る人」である。
このように、2つの属性を並べたとき、後に出した方が強く印象に残る。とくに日本語は「が」という逆接でも順接でも使える鵺のような接続詞があるから、レトリック上有利である。
この程度のテクニックは日常茶飯であるが、曽野氏はひとひねり加える。例えば「彼が有能な人間だった」ということを主張したいとしよう。単に「彼は仕事ができる」では説得力に乏しいし、説得力を持たせようとあれやこれやの例を付け加えれば加えるほど、嘘っぽくなる。
そこで、匿名の第三者に「彼は女性関係にだらしがない」と非難させるのである。その上で、ささやかな例と共に「彼が仕事ができる」ことを主張すれば、「後出し」の効果が期待出来る。如何様にでも設定出来る匿名の第三者が曽野氏の工夫である。
一例を示そう。1997年1月2日に島根県隠岐島沖で起こったロシアタンカー、ナホトカ号の沈没で島根、石川、福井の広い範囲に重油が漂着し、その撤去に大わらわとなる事件があった。曽野氏が会長をつとめる日本財団でもこれに関わることになった。曽野氏としては日本財団の貢献を喧伝したいところだが、ひとつ弱みがあった。十分な人手を出せなかったのである。現地に連絡員一人だけ。理由を述べても言い訳にしか聞こえない。そこで後出しテクニックの登場となる(大阪新聞1997.2.4)。
ところで、この第三者はそもそも存在したのかどうか分からない。「日本財団はどんなことをされているのでしょうか?」といった幅広の聞き方も十分あり得るからだ。こうした疑念を読者が持たない様にすることが砂上論法では必須である。「敬虔なクリスチャン」、「道徳の副読本に登場する誠実な人」というイメージは曽野氏の大きな武器である。
本連載には、話法と論法の2つのキーワードがある。両者は一体不可分といっても良いのだが、強いて言えば、話法には全体的な構成、論法には局所的な展開という意味を持たせている。これまでで曽野話法を概ね紹介し終ったので、これから論法に焦点をあてることにする。論法と言えばいわゆる詭弁テクニックが想起されるが、曽野オリジナルはないものの、彼女なりの工夫がある。まず、「後出し」から始めよう。
「彼は仕事が出来たが、女性関係がだらしなかった」と「彼は女性関係がだらしなかったが、仕事が出来た」を比べてみよう。言っていることは「仕事が出来た」と「女性関係がだらしなかった」という2つの属性を彼が所有しているということだけであるが、2つの文章から受ける印象はまるで違う。前者は「しようがない奴」であるのに対し、後者は「出来る人」である。
このように、2つの属性を並べたとき、後に出した方が強く印象に残る。とくに日本語は「が」という逆接でも順接でも使える鵺のような接続詞があるから、レトリック上有利である。
この程度のテクニックは日常茶飯であるが、曽野氏はひとひねり加える。例えば「彼が有能な人間だった」ということを主張したいとしよう。単に「彼は仕事ができる」では説得力に乏しいし、説得力を持たせようとあれやこれやの例を付け加えれば加えるほど、嘘っぽくなる。
そこで、匿名の第三者に「彼は女性関係にだらしがない」と非難させるのである。その上で、ささやかな例と共に「彼が仕事ができる」ことを主張すれば、「後出し」の効果が期待出来る。如何様にでも設定出来る匿名の第三者が曽野氏の工夫である。
一例を示そう。1997年1月2日に島根県隠岐島沖で起こったロシアタンカー、ナホトカ号の沈没で島根、石川、福井の広い範囲に重油が漂着し、その撤去に大わらわとなる事件があった。曽野氏が会長をつとめる日本財団でもこれに関わることになった。曽野氏としては日本財団の貢献を喧伝したいところだが、ひとつ弱みがあった。十分な人手を出せなかったのである。現地に連絡員一人だけ。理由を述べても言い訳にしか聞こえない。そこで後出しテクニックの登場となる(大阪新聞1997.2.4)。
匿名の人物に「日本財団は何人清掃に出しているんですか」と非難させたのである。もちろんこの人物は単に聞いただけかもしれないし、マスコミ関係者なら、ある程度人数を出していたら記事にしようと好意的に聞いたのかもしれない。しかし、「出していないなら、非難されるべきだ、という調子がこもっていた。」と非難に仕立て上げてしまう。その上で、反論として、日本財団がいかに重要なことをしているかを後出しするのである。ナホトカ号の重油が流れ出して以来、私が働いている日本財団も、物資とお金をすぐに送った。と同時にボランティア支援部の若者が一人ずっと現場にいて、東京がどんな対応をすべきか常に連絡を取っていた。
そこでも「日本財団は何人清掃に出しているんですか」という質問があった。出していないなら、非難されるべきだ、という調子がこもっていた。私たちはたった八十七人で七百億近いお金を、日本と世界に向けた人道的な目的に出している。その仕事は人が考えるほど簡単ではない。お金を出していいかどうか相手を見極めるのにかかり、後の調査も手は抜けない。
ところで、この第三者はそもそも存在したのかどうか分からない。「日本財団はどんなことをされているのでしょうか?」といった幅広の聞き方も十分あり得るからだ。こうした疑念を読者が持たない様にすることが砂上論法では必須である。「敬虔なクリスチャン」、「道徳の副読本に登場する誠実な人」というイメージは曽野氏の大きな武器である。
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