曽野話法 − 砂上論法を斬る(20)
電気が無ければ民主主義も無い - 因果と相関(2)
因果関係に基づいてある事象を別の事象の結果として説明することが出来る。一方、相関関係ではこのような説明は一般に不可能である。しかし、相関関係を因果関係の如くに装うことができれば、もっともらしい説明を手軽に仕立て上げることができる。「電気が無ければ民主主義が無い」がこの類いであることは前回説明した。もうひとつ、例をあげよう。
渡嘉敷島の集団自決事件では、島の守備隊長だった赤松大尉が自決命令を出したか否かをめぐって、住民と赤松隊長が対立している。この事件を扱ったノンフィクションとされる曽野綾子『ある神話の背景』は、この自決命令を否定する方向で書かれている。
自決命令の大きな根拠の一つが1953年3月に渡嘉敷島遺族会が編纂した戦記『渡嘉敷島の戦斗概要』(以下『戦斗概要』と略)である。曽野氏としてはこれをなんとか否定したい。彼女が着目したのはもう一つの住民戦記『渡嘉敷島の戦争の様相』(以下『戦争の様相』と略)である。これは渡嘉敷村の編纂であるが、成立時期が不明である。この『戦争の様相』は、『戦斗概要』と文章が酷似しているのだが、「赤松隊長が自決命令を出した」という一文が無い点で『戦斗概要』と大きく異なっている。
曽野氏の立てた作戦は次の通りである。まず
(1)『戦争の様相』が『戦斗概要』の後に成立した
ことを示す。両者が酷似していることから
(2)『戦争の様相』は『戦斗概要』の引き写しである
引き写しに際し
(3)「隊長の自決命令があった」をわざわざ省いたのだから、村は自決命令を確認出来なかった
と結論付ける。
稿を改めて述べるが、実は認識(1)が誤っており、曽野氏の立論は基本的に謬論なのだが、ここでは(1)を前提として論じてみる。問題となるのは『戦争の様相』と『戦斗概要』が酷似している(高い相関がある)からと言って、(2)のように一方が他方を引き写し(因果関係)と言えるかどうか分からない点である。
『戦争の様相』と『戦斗概要』いずれも清書であるから、草稿段階のものあったと見るのが自然だろう。かりに『戦争の様相』と『戦斗概要』がこの草稿を引き写したのだとすると、『戦争の様相』と『戦斗概要』は酷似するが(高い相関)、両者に引き写しの関係(因果関係)が存在する訳ではない。もし、草稿に「自決命令があった」の一文がなかったとすると、『戦争の様相』はそれを単純に引き継いだだけ、『戦斗概要』はそれでは不十分と考えその一文を入れただけと解され、(3)は成り立たない。
実際、曽野氏の結論とは異なり、渡嘉敷村が自決命令の存在を認識していたことを直接示す資料がある。1951年3月に集団自決者を慰霊する白玉の塔を村は建立したが、その碑文に
そもそも成立年月日の記載の無い『戦争の様相』は草稿というべきもので、村の公式文書と見るのは疑問である。これに対し、慰霊碑は村の公式記録そのものである。
ところで、(1)(2)(3)の推論は、雑誌『諸君』連載時には存在せず、単行本化の段階で慌ただしく取り入れたものである。曽野氏はこんな粗雑な議論をする前に、集団自決時の村長だった古波蔵氏から『戦争の様相』や『戦斗概要』の成立の経緯、白玉の塔の碑文の内容を聴取すべきであった。
注)この白玉の塔は、1960年3月に米軍がホーク基地建設のため周辺地域を接収した際に破壊された。現在、附近の谷間に碑文が裏になった状態で放置されている。現在地の白玉の塔は2代目で、碑文には自決命令のことが書かれていない。
因果関係に基づいてある事象を別の事象の結果として説明することが出来る。一方、相関関係ではこのような説明は一般に不可能である。しかし、相関関係を因果関係の如くに装うことができれば、もっともらしい説明を手軽に仕立て上げることができる。「電気が無ければ民主主義が無い」がこの類いであることは前回説明した。もうひとつ、例をあげよう。
渡嘉敷島の集団自決事件では、島の守備隊長だった赤松大尉が自決命令を出したか否かをめぐって、住民と赤松隊長が対立している。この事件を扱ったノンフィクションとされる曽野綾子『ある神話の背景』は、この自決命令を否定する方向で書かれている。
自決命令の大きな根拠の一つが1953年3月に渡嘉敷島遺族会が編纂した戦記『渡嘉敷島の戦斗概要』(以下『戦斗概要』と略)である。曽野氏としてはこれをなんとか否定したい。彼女が着目したのはもう一つの住民戦記『渡嘉敷島の戦争の様相』(以下『戦争の様相』と略)である。これは渡嘉敷村の編纂であるが、成立時期が不明である。この『戦争の様相』は、『戦斗概要』と文章が酷似しているのだが、「赤松隊長が自決命令を出した」という一文が無い点で『戦斗概要』と大きく異なっている。
曽野氏の立てた作戦は次の通りである。まず
(1)『戦争の様相』が『戦斗概要』の後に成立した
ことを示す。両者が酷似していることから
(2)『戦争の様相』は『戦斗概要』の引き写しである
引き写しに際し
(3)「隊長の自決命令があった」をわざわざ省いたのだから、村は自決命令を確認出来なかった
と結論付ける。
稿を改めて述べるが、実は認識(1)が誤っており、曽野氏の立論は基本的に謬論なのだが、ここでは(1)を前提として論じてみる。問題となるのは『戦争の様相』と『戦斗概要』が酷似している(高い相関がある)からと言って、(2)のように一方が他方を引き写し(因果関係)と言えるかどうか分からない点である。
『戦争の様相』と『戦斗概要』いずれも清書であるから、草稿段階のものあったと見るのが自然だろう。かりに『戦争の様相』と『戦斗概要』がこの草稿を引き写したのだとすると、『戦争の様相』と『戦斗概要』は酷似するが(高い相関)、両者に引き写しの関係(因果関係)が存在する訳ではない。もし、草稿に「自決命令があった」の一文がなかったとすると、『戦争の様相』はそれを単純に引き継いだだけ、『戦斗概要』はそれでは不十分と考えその一文を入れただけと解され、(3)は成り立たない。
実際、曽野氏の結論とは異なり、渡嘉敷村が自決命令の存在を認識していたことを直接示す資料がある。1951年3月に集団自決者を慰霊する白玉の塔を村は建立したが、その碑文に
と明記されているのだ。(注)米軍沖縄攻略の手はじめとして慶良間諸島渡嘉敷島に昭和二十年三月二十六日上陸す。駐屯の船舶特攻隊長某氏の命令により同年三月二十八日島民(老幼男女)二三九名が渡嘉敷島西山の軍陣地北方の盆地で血に染め自決した。これら犠牲者の霊を祀る。
そもそも成立年月日の記載の無い『戦争の様相』は草稿というべきもので、村の公式文書と見るのは疑問である。これに対し、慰霊碑は村の公式記録そのものである。
ところで、(1)(2)(3)の推論は、雑誌『諸君』連載時には存在せず、単行本化の段階で慌ただしく取り入れたものである。曽野氏はこんな粗雑な議論をする前に、集団自決時の村長だった古波蔵氏から『戦争の様相』や『戦斗概要』の成立の経緯、白玉の塔の碑文の内容を聴取すべきであった。
注)この白玉の塔は、1960年3月に米軍がホーク基地建設のため周辺地域を接収した際に破壊された。現在、附近の谷間に碑文が裏になった状態で放置されている。現在地の白玉の塔は2代目で、碑文には自決命令のことが書かれていない。
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