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曽野話法 - 砂上論法を斬る(3)

事実は争わず、人を攻める

 産経コラムに限らず、曽野綾子氏の書き物はよく物議を醸す。しかし、騒ぎには超然としていることが、論壇の大御所としての立ち居振舞いである。仮に論戦に参加する場合でも、曽野話法の特性- 砂上論理 -をわきまえて行動する。すなわち、根拠が薄弱であるため事実関係は争わず、短期決戦、鎧袖一触の構図を作りだす。

 ここでの曽野氏の武器は人攻めである。人格攻撃とも呼ばれるが、曽野氏はこれに卓越した才能を持つ。今回の産経コラム騒動から触りをひとつ。「アパルトヘイトを許容している」という批判が起きてすぐの2月17日の朝日新聞に「アパルトヘイトを称揚していない」というコメントを寄せている。そこで「今回、間違った情報に基づいて興奮している人々を知りました」と、批判者を「興奮している」と貶めている。同様の趣旨のコメントを産経新聞でしているが、こちらはこのような文言はなく、相手によって対応を変える等、なかなか芸が細かい。

 曽野氏がもてる力を遺憾なく発揮した最近の例をひとつ紹介しよう。サンデー毎日のコラム「政経外科」(2013.11.10)で、評論家の佐高信氏は、「曽野氏がベストセラー『人間にとって成熟とは何か』で、『憎む相手から学ぶことができる』と言いながら、自分との対談に応じないのは言行不一致ではないか」と曽野氏を批判した。これに対し曽野氏は、「憎むというのはそれなりに深い関係を持つ人であり、佐高氏が憎まれていると思うのは思い上がりだ」、「対談を申し込めば応じてもらえると思うのはストーカーの論理だ」と反撃、「佐高氏は推測で憎悪をかき立てるアジテーターだ」と断定する。その根拠として佐高発言のいい加減さを内容証明付き質問書で確認したエピソードを紹介する。最後に、佐高氏のような人とは時間と空間を別にして生活した方が良いことを佐高氏からすでに学んだと言い放ち、一刀両断に斬り捨てる。

 「思い上がり」「ストーカー」「アジテーター」と紋切り型の短い台詞で畳み掛けるのが特徴である。佐高発言の検証プロセスを途中に入れて、単調さを避ける工夫をしている。

 ところで、くだんの発言は「曽野や猪瀬にとっては、長良川の自然が破壊されるより、三島由起夫の家がなくなることが気になるらしい」であり、曽野氏は「三島由起夫の家」について発言していないことを内容証明付きの質問書で確認したというわけだ。しかし、佐高氏は比喩的に曽野氏を揶揄したに過ぎず、それを文字通り受け取っていきり立つとは、お嬢さん婆さん− 佐高氏の曽野氏評 −の振る舞いである。だが、それを気取られない筆力はさすがである。

 佐高氏のコラムにはもう一つ重要な批判 -評論家の山崎行太郎氏の批判に曽野氏が答えない- が含まれていた。曽野氏には、沖縄県渡嘉敷島の集団自決事件を扱った「ある神話の背景」(後に「集団自決の真実」と改題)というノンフィクションがある。しかし、このノンフィクションには致命的な欠陥があった。それは、全面的に依拠した赤松隊の陣中日誌が捏造文書だったことである。山崎氏は陣中日誌に対する資料批判のないことを曽野氏に問い糺した。砂上論法では事実関係は争わない。曽野氏はこの批判を全く無視した。後に山崎氏は、陣中日誌は捏造文書だという公開質問状を曽野氏に叩き付けるが、曽野氏はこれも無視、2014年に上梓した新版でも中身を全く変えなかった。
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論争の前提と構成要素

曽野綾子は論議の個別内容・争点から離れて人格攻撃をしている。 さんげつさんのこれまでの筆法から兵法36計に書かれた個別戦術を連想しました。 一般の日本人は三十六計逃げるにしかずと諺風に使うだけで個別内容は知らない人が多いだろう。曽野は議論それ自体を深く追究することはしない。 曽野にとって議論とは政治及びその延長である軍事に近い。  だから、議論を戦わせず議論内容の真実性の追究ではなくてそれ以外の手法で相手に勝つ(黙らせる。追及を挫く)のと同じ効果を追究することを厭わない。虚偽と隠蔽、論点のすり替えなど詭道の限りを尽くす。

構造主義で知られるレヴィ・ストロースは呪術の構成要素を行為・道具・言葉とし、呪術は細分化しやすいとした。この分析視角は呪術と、呪術を統合した面がある祭祀とをリンクさせにくい視角であり、呪術行為者とそれを取り巻く集団の共同主観としての自然観・社会観など呪術が成員で共有される前提が抜け落ちることになる。

そこで、議論・論争の前提と構成要素を考えてみたい。 軍事に近い論争ならゲームや格闘技との類似点が多いはずだ。ローマで尊敬されるグラディエーター(剣闘士)は、見物人にアピールすることが出来れば、名声を得て自由民になることも出来たという。娯楽としての拳闘の主人公には、プレゼンターとしての政治家・芸能人のような要素があった。 単なる特定個人間の論争なら、観客的存在を考える必要はない。 メデイァでの論争は読者等の存在も考慮する必要がある。そこで議論の前提を議論の当事者・議論の対象領域・見物人としたい。 
 議論の当事者と議論の対象領域の関係から個人主観や特定組織の共同主観によって色づけされた論議が展開される可能性もある。 対象領域によっては半ば必然的に議論の当事者の議論に色がつく場合がある。そのような色の中身性格が事実を隠蔽する党略的目眩ましのような論議なのか、事実の判断や評価にある程度避けられない特有な視点なのか(価値判断の基準が系譜的正統性(伝統と一致することが多い)なのか、ドグマ正統なのか、カリスマ的大義(正当性)なのか、法律的・合理的・有効性など妥当性追究なのか)は特に区別して考えないといけない。

次に議論の要素を、議論の目的・議論の内容・個別争点ととりあえず考えたい。

議論の目的は一般には真実や評価を確定するためである。しかし、現実にはそうではなくて、議論の相手方を卑しめ否定することを目的とすることがある。さらに議論に勝つこと自体を目的とすることがあり、その目的は、自分達の利益(出世・名声を含む)の追求か、自分達の価値観・信念信条の正当化と流布効果の追求に分かれる。多くは、両者が一体化しているが、微妙に交錯している場合もある。

曽野綾子の論法は、論争の相手方だけに向けられる技術とは限らない。自分の信念信条を支持する味方にアピールし、それらに同調しないか反感を持つ側を敵とみなし攻撃する。宣伝効果を狙った論法である。

議論の内容について云えば、事実の摘示と自分の視点からの検証と相手のそれを比較・検討することにより、それらを争点化し真実相当性と判断妥当性を競うことが正道のはずである。
しかし、現実の論議は利害対立などから謀略や屁理屈さえ用いられる。

曽野綾子の議論にはそれら詭道論法が満ち溢れている。これらの論法を36計のように類型化することには意味がある。
曽野綾子の「ある神話の背景」の論法について、常に頭に置くべきは、曽野の最終目的は将来事が起きた時に小の虫とみなす住民がマヤやインカがそうであったように自然を擬人化した太陽神やその子孫である大和民族の血縁的ピラミッドに奉仕し、自己犠牲を喜んで受け入れ発揮させることにある。そのために集団自決を美化し、洗脳を試みる。

曽野綾子の本音はテロリスト朝日平吾の云う真正の日本人を自覚することの強要である。そして、平泉渉のように真の日本人になれ、真の日本人なら当然、この場合には喜んで自決するはずだといいたいのである。
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技術系の某役所を退職後、あり余る時間を使い、妄説探索の旅へ。理系老人の怪刀乱魔。

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