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『ある神話の背景』はなぜ長らく検証されなかったのか?

曽野綾子氏の『ある神話の背景』は欠陥が非常に多く、とうていノンフィクションと呼べる代物ではありません。根拠資料は捏造まがい、インタビューは歪曲、推論は杜撰です。普通なら出版直後の批判の嵐ですぐに消えてしまうはずです。しかし、そうなりませんでした。なぜでしょうか。これは、サウスポー氏が拙ブログによせた疑問です。

いくつかの視点で見て行きたいと思います。

1.言論界の動向
 結論をかいつまんで言うと、正当な批判はあったが、曽野氏が論争の場から遁走した為に立ち消えになり、結果、曽野氏はながらえた、というものです。

 『ある神話の背景』が1972年に出版された直後に『鉄の暴風』の著者である太田良博氏が琉球新報紙上で反論しましたが、曽野氏は黙殺し、数年経ってから『新沖縄文学』で「感情論をたたかわす気はない」とかわしました。曽野氏としては事実関係を争えないのでよんどころない戦術ですが、太田氏としては二の矢が放てず、曽野氏の作戦勝ちだったと言えます。

 石川為丸氏が的確に指摘した様に

『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。…沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を軽い「神話」にしてしまおうとする意図

であり、通常の読解能力があれば

曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。

となるはずのものです(新日本文学2001.7.8)。太田氏と曽野氏のやり取りで、この感覚を持った人が議論に加われば違った展開になったと思いますが、当初はむしろ逆方向に動きました。琉大の仲程昌徳氏は

公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。

と曽野氏を持ち上げ、

ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。

と曽野氏の神話説を全面肯定しました(「沖縄の戦記」1982)。

 信じ難いポカ評論ですが、その背景にはいくつか思考上の陥穽があったように思います:「沖縄人だけで沖縄戦を語っても説得力が無く、本土人の視点が必要である。沖縄人は被害者であると同時に、加害者でもあるはずで、そうした反省を踏まえる必要がある」 そこへおあつらえ向きの作品が登場し、大甘の評価になったようです。クリスチャン、売り出し中の女流作家という看板も判断を曇らせたと思います。

 ただ、仲程氏の評論は議論のきっかけにはなったようで、1980年代中頃から一連の批判・評論活動が活発になります。太田・曽野論争(沖縄タイムス紙上)、論争を受けた沖縄の主要な言論人の発言、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」、伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」などが出されました。ところが、これら批判に対する曽野氏の態度は全く不真面目なもので、太田・曽野論争ではまともな議論をせずに人格攻撃に終始し、早々に本土へ遁走しました。この時点で言論人としての生命は終わってしかるべきですが、本土論壇のレベルは低いようで、曽野氏は逃げ切りに成功、その後大御所の地位に上り詰めて行きました。

2.インタビューの歪曲
 赤松氏サイドのインタビューに関しては、氏に有利な形に変えられているので、苦情が出るはずはありません。しかし、隊員の中には、自己の見聞(曽野氏に語った)と異なる事柄が『ある神話の背景』に書かれたと戦友会の手記に記している人がいます。また、ご存知のように、渡嘉敷島の戦跡碑に曽野氏が引用した「第三戦隊陣中日誌」の一節は原本には無く、谷本氏が編纂した陣中日誌の一節とも異なっています。戦友会のパンフ(おそらく、落成式で配られたもの)には、谷本版陣中日誌とは異なる旨のことわり書きがあります。事情を知らない大部分の元隊員をケアする必要があると判断したのだと思います。

 クレーム問題を起こすとすれば、村民側ですが、主たる対象は、古波蔵元村長です。古波蔵氏は、おそらく、近親者にはいろいろ語ったと思いますが、情報はありません。村人の反応の例が、富村順一『隠された沖縄戦記』(1979)にあります。「曽野綾子はツヌチムタン(人間の心がない)」という節があり、ある渡嘉敷村民(富山真順氏?)が『ある神話の背景』を批判しています。富山真順氏は米軍上陸直前に自決用の手榴弾が配布されたということを曽野氏に話したと証言しましたが、曽野氏はこれを裁判で否定しました。私が面会した同氏の遺族は「親父が嘘つき呼ばわりされた」といたくご立腹でした。

 なお、曽野氏の沖縄戦関係のノンフィクションにひめゆり学徒隊を扱った『生贄の島』がありますが、彼女のインタビューを受けた人から「言ったことと違う事が書かれている」「言っていもいない事が書かれている」という批判がありました(軍医だった長田紀春氏が書いた『福木の白花』2003)。阪神氏が、このことを曽野氏に知らせたら、「正しいと思うノンフィクションをご自分でお書きになったらいいでしょ」と逆切れの返事が来たようです。

 今なら、ネットがあるので、根拠を示せば、曽野氏を自由に批判出来ますが、当時は、手段は出版に限られ、それを有するのは特権階級であり、一般人は泣き寝入りするほかなかったと思います。

3.村の状況
 渡嘉敷村はもっと批判的に対処すべきではないかと外部の者には思えます。現実には、村の資料館に、谷本版陣中日誌の外、赤松隊の遺品(赤松氏の時計も?)、曽野氏の手書きの原稿(戦跡碑の碑文だったと記憶します)が納められています。また、捏造碑とでもいうべき曽野綾子撰の戦跡碑も村のサイトにデカデカと紹介されています。

 察するところ、理由は経済です。沖縄の基地問題の縮図がここにあります。今でこそ、マリンスポーツが盛んになり、慶良間諸島が国立公園に指定され、前途は明るいものです。しかし、曽野氏が取材した頃の渡嘉敷村は経済的に厳しい状況でした。週刊朝日の中西記者の終戦特集記事(1970.8)の一節です。

渡嘉敷には空家が目立つ。家屋を取り壊した跡も目につく。みんな、那覇へでていった人のあとだ。だれの目もが、那覇をみている。七二年復帰というが、ここからは、本土は那覇を通してわずかにかいま見られるだけなのだ。


 玉井喜八氏は1953年~1985年、30年以上の長きに亘って村長を勤めた人物です。財政赤字のため前任者が任期半ばで村政を放擲したあとを引き継いだこともあり、財政再建のことで常に頭の中が一杯だったと思います。彼は1970年3月に赤松氏を村の慰霊祭に呼びますが、これもその一環でしょう。彼自身は戦時中は島に不在だったこともあり、抵抗感は少なかったと思います。(赤松氏が本島での反対運動で追い返されたのはご承知の通り)。
 赤松氏自身裕福な肥料店を経営しておりましたし、彼の元側近には自衛隊の将官やら、建設会社の社長やら世俗的に成功した人がかなりいたようです。彼等は、相当な寄付を村にしたのではないかと思います。

 1960年に米軍がホークミサイル基地を渡嘉敷島に整備する事になりました。このとき、慰霊碑である初代白玉の塔が接収地区内にあり、対処を考えなければなりません。米軍からどうするかの問い合わせがあったと思います。玉井執行部は、初代を放棄して、新しく(現在地にある)白玉の塔を建立する道を選びました。初代の白玉の塔の碑文には、集団自決が赤松隊長の命令で起きた事が明記されています。これに対し、2代目にはその記述がありません。玉井氏の意図は明らかです。
 また、戦跡碑を建てたのも玉井村政の時期です。

 玉井氏は政治的・経営的才覚に非常に優れていたようで、米軍のホーク基地撤去後に、国立青年の家を誘致し、これにより、立派な港湾設備が出来たようです。氏は村の財政を立て直した功労者として重きをなしたと聞いています。

4.検証するためのツール
  『ある神話の背景』をいざ検証しようとすると、大量の沖縄戦関係の資料に目を通さなければなりません。そのためには、目黒区にある防衛省の戦史室に足を運び、信じ難いほどのひどい検索システムを使って資料を探さなければなりません。また、コピーもその場では出来ず外部に発注して1−2週間ぐらい後に郵送されて来ます。こういう状況下では検証作業は事実上不可能でしょう。

 事態が劇的に変わったのは、内閣府の沖縄戦資料閲覧室が、戦史室にある沖縄戦関係の資料の大部分を2008/5以降WEB上に公開してからです。拙著「検証『ある神話の背景』」は、このWEB検索システムに負うところ極めて大です。曽野氏の嘘はこの検索システムでいっぺんにバレてしまいました。
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谷本小次郎氏寄贈

さんげつさん、渡嘉敷には谷本小次郎氏寄贈の曽野綾子直筆の戦跡碑文がありました。
陸軍士官学校で受賞した銀時計もありました。
赤松夫人寄贈の無条件降伏調印文書もあります。

権力御用達

「ある神話の背景」が批判されなかった理由は、現在のように戦時資料が入手し難かった事が大きいと思います。しかし、その入手が容易になっても、数々の失言放言をやらかしても、曽野の言論人生命が消える事ありません。

私は大きい理由は2つ在ると思います。1つは曽野が権力の御用達によって、「ある神話の背景」を書いたからです。自分は権力に十二分に貢献した来たから、何をやっても守られるのだと確信しているでしょう。

2つ目はやはり、いわゆる「軍命」の在った事を沖縄側が証明できなかったからだと思います。仲程昌徳はその点に気を取られて、あんなおっちょこちょいの評論を書いたと思います。
「鉄の暴風」執筆者の太田良博の責任は、曽野につけ込まれたという意味で、大きいと言わざるを得ないです。

恐縮

こんばんわ、サウスポーです。 
さんげつさん、長く、そして細かい説明ありがとうございます。
サウスポー、只々恐縮しております。

何度も読みたいと思います。

>キー坊さんらの仲間内を除けば、残念ながらそれほどありません。マスコミで取り上げてくれたのは沖縄タイムス。評論家の山崎行太郎氏(著書での引用)、芥川賞作家の目取真俊氏(ブログでの紹介)、元沖縄県知事の大田昌秀氏(新聞の論説記事)くらいです。退職したマスコミ関係者が呼んでくれて講演をしたことはあります。

 この反響の広がりの無さに私は、今の日本の、日本人の批判力の貧困を感じます。退職したマスコミ関係者ではなく、現役マスコミ関係者にこそ、さんげつさんの講演を聞いてもらうべきだったのかもしれません。

 キー坊さんのブログでも取り上げていましたが、大高未貴氏が書かれた『強欲チャンプル…』に、『ある神話の背景』が取り上げられている事実は何を意味しているのでしょう。大高氏はチャンネル桜のキャスターを多く勤める方です。つまり大量の最新情報に触れている方でもあるわけです。その大高氏ですら未だに『ある神話の…』を取り上げているということは、ここからは私の考えですが、今の保守論壇は自決問題に関しては時間が止まっているのではないか?ということ。
 さんげつさんのブログも、キー坊さんのブログも、曽野氏を批判していますが、それと同時に憂うべきは、山崎行太郎さんが考察した如く、小林秀雄氏や江藤淳氏がいた頃とは明らかに劣化している、曽野氏や渡部昇一氏のような、また大高未貴氏が『ある神話の背景』を2015年になっても取り上げてしまえる今の保守論壇に対して、打撃をあたえられる力の無いことでしょう。
 個人では抵抗していても、この潮流の広がらないこと、曽野氏を退場させることができない力の無さを痛感します。悔しいですよね。

本当ならば、曽野氏はもう言論界にはいられないはずなのです。
「馬鹿だチョンだ」と言った谷垣議員も一発アウトのはずなのです。
ネオナチと繋がっている稲田朋美議員、高市早苗議員もアウトのはずなのです。しかしまだ特権の座にいる、いられるという現実。事態は実はかなり深刻かもしれません。曽野氏はこれらを集約したような存在なのだなとつくづく思います。しかし私は悲観してはいません。私の好きな言葉があります。

「少数派の抵抗運動は、これから多数派になる視点を先取りする。いのちや生活において頂点同調主義ほど無力なものはない」

さんげつさんや私は、曽野氏からすれば今は小さな存在かもしれません。さんげつさんのブログもささやかな抵抗かもしれません。しかしこれはいつか多数派を形成する意味ある運動だと私は思います。

コメント有難うございます

・阪神さん
 記憶力がいいですね。阪神さんの説明を読んで記憶がよみがえってきました。

・キー坊さん
 キー坊さんは太田氏に厳しいですが、私は少し違った感想を持っています。

 太田氏の失敗は、「『鉄の暴風』は取材しなかった」という曽野氏の批判に対して、最初に(琉球新報紙で)きちんと反論しなかったことです。これで仲程氏が妙なことを言い出して、議論があらぬ方向にそれてしまいました。

 しかし、論争を前提に考えると太田氏の作戦がおかしかったとはいえないように思います。曽野氏があれだけはっきり「取材しなかった」と言うからには、何らかの証拠を握っているかも知れません。相手の手の内が読めない段階で、太田氏の側からカードを切るのは得策ではありません。曽野氏の反撃を待ってカウンターを見舞うつもりだったのだと思います。

 太田氏の誤算は、干戈を交えることなく曽野氏が遁走してしまったことです。逃げ出した相手に勝利宣言をするなどは、ネトウヨ諸君は別として、まともな言論人ならしないでしょう。

 なお、その後の太田・曽野論争、山崎氏の批判から、曽野氏の手の内にはカードは実は全く存在しなかったと見られます。

・サウスポーさん
 励みになるコメント有難うございます。

 大高氏達は共同幻想の中で生きているんではないでしょうか。馬鹿ではないと思うのでウソは承知だと思います。今の調子でやっておれば仕事は来ますが、軌道修正すれば路頭に迷う恐れがありますからね。

 慰安婦問題に関するでっちあげ記事で、大高氏は、安秉直ソウル大名誉教授や山下英愛文教大教授に訴えられたようです。少しだけ軸足を移すかもしれません。せっかく稼いだお金を召し上げられてしまいますから。

前近代の正統性

曽野綾子がのさばっている理由は多くの日本人が未だマッカーサーの云う12歳の精神状態に止まっていることもある。多神教・自然崇拝・血縁的差別を当然とする前近代定住農耕から生まれた連続性・一体性を重んじる化石的共同主観の系譜的正統性を否定できないでいる。一方戦前の香山光男、戦後の新井将敬など朝鮮系の人は皇国史観を奉じ、あるいは風の会など右翼団体と接触することにより身を起こそうとした。同じく女性が権力に近づくには、武市・稲田・有森・山谷など右派に属することが有効で手っ取り早い。 曽野綾子も大の虫になるには自決を自発的なものとして賛美することが手っ取り早かったのだ。
多くの人が個人の主体性が弱く、自然に平伏し正統と主流を標榜する勢力に無条件的に恭順を示す従属的流される生き方をやむをえないと容認し、又は積極的にその流れに乗るという生き方に馴らされている。

以上のような下地があるからか正しい論理を逆手に取る恣意的・部分的論理がまかり通っている。
たとえば、山本七平に「空気の研究」という著作がある。著者は空気とは臨在勧的把握で別の語で「感情移入の絶対化」、「対象の物神化とその支配」とも言い換えて説明する。その上で空気に影響を与える要素又は親縁性がある概念として「アニミズム」「偶像化できる対象」「状況倫理」「直きことその中にあり-対内倫理」などを挙げ、空気の支配を受け入れにくい要素として「合理性」「一神教」「個人主義」などを挙げる。正しい把握といえるだろう。
しかし、著者が具体的に空気に支配された事例として詳細な説明を加えるのは、反公害の立場からの「反車社会」、「カドミニウム公害を公害と決めつける立場」、「通信簿にオール3をつける教師」など少数で一時的流行。
空気が支配するのは発言すると不利益を受けるからで、典型例は強者に対する弱者、正統派・主流派を自認する勢力に弱者・中間派・異端と非難されることを畏れる者が逆らいがたいことが基本である。そもそも空気支配とは、伝統的支配原理-無条件的恭順が起源のはずだ。
従って、典型例の叙述としては、部族社会の伝統遵守から始め、オーストラリアの日本軍捕虜収容所カウラでの脱走投票の事例を研究するのが良い。著者が挙げる事例は倒錯していて奇妙だ。(以上は最近アマゾンの「空気の研究」書評の一部)

今一つは、沖縄タイムズ・琉球新報の沖縄二誌をつぶせと語った民間人である百田尚樹を批判することこそが言論弾圧に当たるという辛抱某などの主張。 戦前国粋主義者、蓑田胸記は野党議員を使って天皇機関説論者、美濃部達吉を大学から追放させた。蓑田は、否定しがたい言論弾圧者。
百田は与党議員の集会で新聞をつぶせと語ったので蓑田以上に言論弾圧の位置にいることは明らか。

曽野とか百田にとって主流であり、伝統的正統な系譜に属する論理は無条件に正当である。非主流・反主流、非伝統的・反伝統的言論には始めから正当性(実は正統性)がないと見下した論理を使う。

Re: 前近代の正統性

和田さん コメント有難うございます。

 山本七平氏といえば、イザヤペンダサンのペンネームで出した『日本人とユダヤ人』を思いだします。ユダヤ教に関する該博な知識を基にした日本人論という触れ込みで、ベストセラーになったと思います。しかし、彼のユダヤ教とキリスト教に関する知識はまるでデタラメだったことが、宗教学者の浅見定雄氏により暴かれました。

 この本の最初の話題は、「日本人は安全と水はただで手に入ると思っている」で、安全を求めて高いホテルに住むユダヤ人のエピソードがでてきます。ところが、これはありえないエピソードで、ユダヤ人も日本人も安全に関する感覚はそう違わないというのが浅見氏の見解だったように記憶します。のっけからウソ話を堂々と持ち込む人がいるということをこの時初めて知りました。後に曽野綾子氏に出会うことになりましたが。

 もっとも、キリスト教やユダヤ教に関する知識がほとんどなくても、イザヤペンダサンの論法がおかしいことは、注意深く読めば分かります。

 彼の手口は次のようです。「日本人は安全と水はただで手に入ると思っている」などという、そうかもしれないなと思わせる命題をずばり持ち込みます。しかし、なぜそうなのかをきちんと説明することはしません。概念規定をきちんとせず、ふわぁーとした感じで、エピソードをつないでいきます。論理的に矛盾した話はスルーします。はじめの話など忘れるくらい遠くに来てから、自分の望むところにストンと落とします。

 山本氏の馬鹿馬鹿しい話に、これ以上付き合うつもりはなく、彼の名前を冠した本は読んでいません。「空気」に関する和田さんの説明を読んでああやっぱりと思いました。アマゾンの書評欄を見たら、☆印1,2個の低評価がかなりあって、正常な批判能力を備えた人が多数いるのを見て安心しました。

山本と曽野の接点

http://yamamoto7hei.blog.fc2.com/blog-entry-1243.html
上記中段から「①先日、曽野綾子氏から『ある神話の背景』をお送りいただいた。氏はこの中で、沖縄の「伝説的悪人」赤松大尉のことを、あらゆる方法で調査しておられる。この中に多くの人の「赤松大尉糾弾」の辞が収められている。<『私の中の日本軍(下)』 ②確かに彼には糾弾さるべき点はあったであろうし、戦場にいる限り、それはもちろん私にもある。ただ私にとって非常に奇妙に見えたのは、ある評論家の「糾弾の方向」である。それはまるで「死体をかついで野戦病院にかけこまないのはもってのほかだ」と言っているように私には思えた。
③赤松大尉の副官であったかつての一見習士官が「では一体、私たちはどうすればよかったのですか」と問うている。それにはだれも答えられない。
④そして曽野氏は、この「神話の背景」にあるいま私が要約したような「規範の逆転」を察知しておられる。戦場を知らない女性でも、「目」のある人が本気で調べれば、それは察知できるのである」とある。

曽野は山本に親近感を憶えた。山本は百人斬り下手人擁護で有名。山本と曽野は1971年百人斬りと渡嘉敷虐殺について、下手人を強烈に擁護した点で似ている。 共に30数年を経て名誉毀損裁判になったことも。ここに書かれていることは私には意味不明。 

山本のように床屋談義風な論調をする人間に対しては論調を整理して論理展開の誤りを指摘しなければならず、疲れる作業となる。 しかし、山本のような人間を重宝がる勢力が権力の近くに居るのでまやかしを指摘しなければならない。

Re: 山本と曽野の接点

和田さん、コメント有難うございます。

山本七平氏と曽野綾子氏に接点があるとは知りませんでした。

和田さんは、「ここに書かれていることは私には意味不明」と書かれていますが、一部の人を除けば、私も含め、同じ感想を持つと思います。

山本(=イザヤ・ペンダサン)論法の常套手段は、「ここまでくれば、もはや誰の目にも明らかであろう。***である。」という断定です。しかし、結論にいたる道筋たるや、むやみと長く、事実を誤認するは、話は横道にそれるは、筋は通らないはという全くのインチキ論証です。

ところがこんな本がベストセラーになり、(私の記憶が正しければ)当時の中曽根首相が賞賛し、大矢壮一ノンフィクション賞を受賞しました。

最近論壇の劣化いわれていますが、曽野氏の『ある神話の背景』を考慮すると、1970年代当時、すでに十分劣化していたという感想を持ちます。
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技術系の某役所を退職後、あり余る時間を使い、妄説探索の旅へ。理系老人の怪刀乱魔。

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