『ある神話の背景』はなぜ長らく検証されなかったのか?
曽野綾子氏の『ある神話の背景』は欠陥が非常に多く、とうていノンフィクションと呼べる代物ではありません。根拠資料は捏造まがい、インタビューは歪曲、推論は杜撰です。普通なら出版直後の批判の嵐ですぐに消えてしまうはずです。しかし、そうなりませんでした。なぜでしょうか。これは、サウスポー氏が拙ブログによせた疑問です。
いくつかの視点で見て行きたいと思います。
1.言論界の動向
結論をかいつまんで言うと、正当な批判はあったが、曽野氏が論争の場から遁走した為に立ち消えになり、結果、曽野氏はながらえた、というものです。
『ある神話の背景』が1972年に出版された直後に『鉄の暴風』の著者である太田良博氏が琉球新報紙上で反論しましたが、曽野氏は黙殺し、数年経ってから『新沖縄文学』で「感情論をたたかわす気はない」とかわしました。曽野氏としては事実関係を争えないのでよんどころない戦術ですが、太田氏としては二の矢が放てず、曽野氏の作戦勝ちだったと言えます。
石川為丸氏が的確に指摘した様に
信じ難いポカ評論ですが、その背景にはいくつか思考上の陥穽があったように思います:「沖縄人だけで沖縄戦を語っても説得力が無く、本土人の視点が必要である。沖縄人は被害者であると同時に、加害者でもあるはずで、そうした反省を踏まえる必要がある」 そこへおあつらえ向きの作品が登場し、大甘の評価になったようです。クリスチャン、売り出し中の女流作家という看板も判断を曇らせたと思います。
ただ、仲程氏の評論は議論のきっかけにはなったようで、1980年代中頃から一連の批判・評論活動が活発になります。太田・曽野論争(沖縄タイムス紙上)、論争を受けた沖縄の主要な言論人の発言、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」、伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」などが出されました。ところが、これら批判に対する曽野氏の態度は全く不真面目なもので、太田・曽野論争ではまともな議論をせずに人格攻撃に終始し、早々に本土へ遁走しました。この時点で言論人としての生命は終わってしかるべきですが、本土論壇のレベルは低いようで、曽野氏は逃げ切りに成功、その後大御所の地位に上り詰めて行きました。
2.インタビューの歪曲
赤松氏サイドのインタビューに関しては、氏に有利な形に変えられているので、苦情が出るはずはありません。しかし、隊員の中には、自己の見聞(曽野氏に語った)と異なる事柄が『ある神話の背景』に書かれたと戦友会の手記に記している人がいます。また、ご存知のように、渡嘉敷島の戦跡碑に曽野氏が引用した「第三戦隊陣中日誌」の一節は原本には無く、谷本氏が編纂した陣中日誌の一節とも異なっています。戦友会のパンフ(おそらく、落成式で配られたもの)には、谷本版陣中日誌とは異なる旨のことわり書きがあります。事情を知らない大部分の元隊員をケアする必要があると判断したのだと思います。
クレーム問題を起こすとすれば、村民側ですが、主たる対象は、古波蔵元村長です。古波蔵氏は、おそらく、近親者にはいろいろ語ったと思いますが、情報はありません。村人の反応の例が、富村順一『隠された沖縄戦記』(1979)にあります。「曽野綾子はツヌチムタン(人間の心がない)」という節があり、ある渡嘉敷村民(富山真順氏?)が『ある神話の背景』を批判しています。富山真順氏は米軍上陸直前に自決用の手榴弾が配布されたということを曽野氏に話したと証言しましたが、曽野氏はこれを裁判で否定しました。私が面会した同氏の遺族は「親父が嘘つき呼ばわりされた」といたくご立腹でした。
なお、曽野氏の沖縄戦関係のノンフィクションにひめゆり学徒隊を扱った『生贄の島』がありますが、彼女のインタビューを受けた人から「言ったことと違う事が書かれている」「言っていもいない事が書かれている」という批判がありました(軍医だった長田紀春氏が書いた『福木の白花』2003)。阪神氏が、このことを曽野氏に知らせたら、「正しいと思うノンフィクションをご自分でお書きになったらいいでしょ」と逆切れの返事が来たようです。
今なら、ネットがあるので、根拠を示せば、曽野氏を自由に批判出来ますが、当時は、手段は出版に限られ、それを有するのは特権階級であり、一般人は泣き寝入りするほかなかったと思います。
3.村の状況
渡嘉敷村はもっと批判的に対処すべきではないかと外部の者には思えます。現実には、村の資料館に、谷本版陣中日誌の外、赤松隊の遺品(赤松氏の時計も?)、曽野氏の手書きの原稿(戦跡碑の碑文だったと記憶します)が納められています。また、捏造碑とでもいうべき曽野綾子撰の戦跡碑も村のサイトにデカデカと紹介されています。
察するところ、理由は経済です。沖縄の基地問題の縮図がここにあります。今でこそ、マリンスポーツが盛んになり、慶良間諸島が国立公園に指定され、前途は明るいものです。しかし、曽野氏が取材した頃の渡嘉敷村は経済的に厳しい状況でした。週刊朝日の中西記者の終戦特集記事(1970.8)の一節です。
玉井喜八氏は1953年~1985年、30年以上の長きに亘って村長を勤めた人物です。財政赤字のため前任者が任期半ばで村政を放擲したあとを引き継いだこともあり、財政再建のことで常に頭の中が一杯だったと思います。彼は1970年3月に赤松氏を村の慰霊祭に呼びますが、これもその一環でしょう。彼自身は戦時中は島に不在だったこともあり、抵抗感は少なかったと思います。(赤松氏が本島での反対運動で追い返されたのはご承知の通り)。
赤松氏自身裕福な肥料店を経営しておりましたし、彼の元側近には自衛隊の将官やら、建設会社の社長やら世俗的に成功した人がかなりいたようです。彼等は、相当な寄付を村にしたのではないかと思います。
1960年に米軍がホークミサイル基地を渡嘉敷島に整備する事になりました。このとき、慰霊碑である初代白玉の塔が接収地区内にあり、対処を考えなければなりません。米軍からどうするかの問い合わせがあったと思います。玉井執行部は、初代を放棄して、新しく(現在地にある)白玉の塔を建立する道を選びました。初代の白玉の塔の碑文には、集団自決が赤松隊長の命令で起きた事が明記されています。これに対し、2代目にはその記述がありません。玉井氏の意図は明らかです。
また、戦跡碑を建てたのも玉井村政の時期です。
玉井氏は政治的・経営的才覚に非常に優れていたようで、米軍のホーク基地撤去後に、国立青年の家を誘致し、これにより、立派な港湾設備が出来たようです。氏は村の財政を立て直した功労者として重きをなしたと聞いています。
4.検証するためのツール
『ある神話の背景』をいざ検証しようとすると、大量の沖縄戦関係の資料に目を通さなければなりません。そのためには、目黒区にある防衛省の戦史室に足を運び、信じ難いほどのひどい検索システムを使って資料を探さなければなりません。また、コピーもその場では出来ず外部に発注して1−2週間ぐらい後に郵送されて来ます。こういう状況下では検証作業は事実上不可能でしょう。
事態が劇的に変わったのは、内閣府の沖縄戦資料閲覧室が、戦史室にある沖縄戦関係の資料の大部分を2008/5以降WEB上に公開してからです。拙著「検証『ある神話の背景』」は、このWEB検索システムに負うところ極めて大です。曽野氏の嘘はこの検索システムでいっぺんにバレてしまいました。
いくつかの視点で見て行きたいと思います。
1.言論界の動向
結論をかいつまんで言うと、正当な批判はあったが、曽野氏が論争の場から遁走した為に立ち消えになり、結果、曽野氏はながらえた、というものです。
『ある神話の背景』が1972年に出版された直後に『鉄の暴風』の著者である太田良博氏が琉球新報紙上で反論しましたが、曽野氏は黙殺し、数年経ってから『新沖縄文学』で「感情論をたたかわす気はない」とかわしました。曽野氏としては事実関係を争えないのでよんどころない戦術ですが、太田氏としては二の矢が放てず、曽野氏の作戦勝ちだったと言えます。
石川為丸氏が的確に指摘した様に
であり、通常の読解能力があれば『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。…沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を軽い「神話」にしてしまおうとする意図
となるはずのものです(新日本文学2001.7.8)。太田氏と曽野氏のやり取りで、この感覚を持った人が議論に加われば違った展開になったと思いますが、当初はむしろ逆方向に動きました。琉大の仲程昌徳氏は曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。
と曽野氏を持ち上げ、公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。
と曽野氏の神話説を全面肯定しました(「沖縄の戦記」1982)。ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。
信じ難いポカ評論ですが、その背景にはいくつか思考上の陥穽があったように思います:「沖縄人だけで沖縄戦を語っても説得力が無く、本土人の視点が必要である。沖縄人は被害者であると同時に、加害者でもあるはずで、そうした反省を踏まえる必要がある」 そこへおあつらえ向きの作品が登場し、大甘の評価になったようです。クリスチャン、売り出し中の女流作家という看板も判断を曇らせたと思います。
ただ、仲程氏の評論は議論のきっかけにはなったようで、1980年代中頃から一連の批判・評論活動が活発になります。太田・曽野論争(沖縄タイムス紙上)、論争を受けた沖縄の主要な言論人の発言、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」、伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」などが出されました。ところが、これら批判に対する曽野氏の態度は全く不真面目なもので、太田・曽野論争ではまともな議論をせずに人格攻撃に終始し、早々に本土へ遁走しました。この時点で言論人としての生命は終わってしかるべきですが、本土論壇のレベルは低いようで、曽野氏は逃げ切りに成功、その後大御所の地位に上り詰めて行きました。
2.インタビューの歪曲
赤松氏サイドのインタビューに関しては、氏に有利な形に変えられているので、苦情が出るはずはありません。しかし、隊員の中には、自己の見聞(曽野氏に語った)と異なる事柄が『ある神話の背景』に書かれたと戦友会の手記に記している人がいます。また、ご存知のように、渡嘉敷島の戦跡碑に曽野氏が引用した「第三戦隊陣中日誌」の一節は原本には無く、谷本氏が編纂した陣中日誌の一節とも異なっています。戦友会のパンフ(おそらく、落成式で配られたもの)には、谷本版陣中日誌とは異なる旨のことわり書きがあります。事情を知らない大部分の元隊員をケアする必要があると判断したのだと思います。
クレーム問題を起こすとすれば、村民側ですが、主たる対象は、古波蔵元村長です。古波蔵氏は、おそらく、近親者にはいろいろ語ったと思いますが、情報はありません。村人の反応の例が、富村順一『隠された沖縄戦記』(1979)にあります。「曽野綾子はツヌチムタン(人間の心がない)」という節があり、ある渡嘉敷村民(富山真順氏?)が『ある神話の背景』を批判しています。富山真順氏は米軍上陸直前に自決用の手榴弾が配布されたということを曽野氏に話したと証言しましたが、曽野氏はこれを裁判で否定しました。私が面会した同氏の遺族は「親父が嘘つき呼ばわりされた」といたくご立腹でした。
なお、曽野氏の沖縄戦関係のノンフィクションにひめゆり学徒隊を扱った『生贄の島』がありますが、彼女のインタビューを受けた人から「言ったことと違う事が書かれている」「言っていもいない事が書かれている」という批判がありました(軍医だった長田紀春氏が書いた『福木の白花』2003)。阪神氏が、このことを曽野氏に知らせたら、「正しいと思うノンフィクションをご自分でお書きになったらいいでしょ」と逆切れの返事が来たようです。
今なら、ネットがあるので、根拠を示せば、曽野氏を自由に批判出来ますが、当時は、手段は出版に限られ、それを有するのは特権階級であり、一般人は泣き寝入りするほかなかったと思います。
3.村の状況
渡嘉敷村はもっと批判的に対処すべきではないかと外部の者には思えます。現実には、村の資料館に、谷本版陣中日誌の外、赤松隊の遺品(赤松氏の時計も?)、曽野氏の手書きの原稿(戦跡碑の碑文だったと記憶します)が納められています。また、捏造碑とでもいうべき曽野綾子撰の戦跡碑も村のサイトにデカデカと紹介されています。
察するところ、理由は経済です。沖縄の基地問題の縮図がここにあります。今でこそ、マリンスポーツが盛んになり、慶良間諸島が国立公園に指定され、前途は明るいものです。しかし、曽野氏が取材した頃の渡嘉敷村は経済的に厳しい状況でした。週刊朝日の中西記者の終戦特集記事(1970.8)の一節です。
渡嘉敷には空家が目立つ。家屋を取り壊した跡も目につく。みんな、那覇へでていった人のあとだ。だれの目もが、那覇をみている。七二年復帰というが、ここからは、本土は那覇を通してわずかにかいま見られるだけなのだ。
玉井喜八氏は1953年~1985年、30年以上の長きに亘って村長を勤めた人物です。財政赤字のため前任者が任期半ばで村政を放擲したあとを引き継いだこともあり、財政再建のことで常に頭の中が一杯だったと思います。彼は1970年3月に赤松氏を村の慰霊祭に呼びますが、これもその一環でしょう。彼自身は戦時中は島に不在だったこともあり、抵抗感は少なかったと思います。(赤松氏が本島での反対運動で追い返されたのはご承知の通り)。
赤松氏自身裕福な肥料店を経営しておりましたし、彼の元側近には自衛隊の将官やら、建設会社の社長やら世俗的に成功した人がかなりいたようです。彼等は、相当な寄付を村にしたのではないかと思います。
1960年に米軍がホークミサイル基地を渡嘉敷島に整備する事になりました。このとき、慰霊碑である初代白玉の塔が接収地区内にあり、対処を考えなければなりません。米軍からどうするかの問い合わせがあったと思います。玉井執行部は、初代を放棄して、新しく(現在地にある)白玉の塔を建立する道を選びました。初代の白玉の塔の碑文には、集団自決が赤松隊長の命令で起きた事が明記されています。これに対し、2代目にはその記述がありません。玉井氏の意図は明らかです。
また、戦跡碑を建てたのも玉井村政の時期です。
玉井氏は政治的・経営的才覚に非常に優れていたようで、米軍のホーク基地撤去後に、国立青年の家を誘致し、これにより、立派な港湾設備が出来たようです。氏は村の財政を立て直した功労者として重きをなしたと聞いています。
4.検証するためのツール
『ある神話の背景』をいざ検証しようとすると、大量の沖縄戦関係の資料に目を通さなければなりません。そのためには、目黒区にある防衛省の戦史室に足を運び、信じ難いほどのひどい検索システムを使って資料を探さなければなりません。また、コピーもその場では出来ず外部に発注して1−2週間ぐらい後に郵送されて来ます。こういう状況下では検証作業は事実上不可能でしょう。
事態が劇的に変わったのは、内閣府の沖縄戦資料閲覧室が、戦史室にある沖縄戦関係の資料の大部分を2008/5以降WEB上に公開してからです。拙著「検証『ある神話の背景』」は、このWEB検索システムに負うところ極めて大です。曽野氏の嘘はこの検索システムでいっぺんにバレてしまいました。
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