曽野話法 - 砂上論法を斬る(4)
事実は争わず、人を攻める (2)
もう一つ例を挙げよう。
沖縄戦を扱ったノンフィクション「鉄の暴風」の著者の一人である太田良博氏との間で、1985年に沖縄タイムス紙上で行われた論争である。曽野綾子氏の「ある神話の背景」は「鉄の暴風」を全面的に否定したが、この論争で太田氏は「ある神話の背景」を批判、曽野氏が反論、太田氏が再批判した。
もう一つ例を挙げよう。
沖縄戦を扱ったノンフィクション「鉄の暴風」の著者の一人である太田良博氏との間で、1985年に沖縄タイムス紙上で行われた論争である。曽野綾子氏の「ある神話の背景」は「鉄の暴風」を全面的に否定したが、この論争で太田氏は「ある神話の背景」を批判、曽野氏が反論、太田氏が再批判した。
「鉄の暴風」は1950年、「ある神話の背景」は1971年の刊行である。「ある神話の背景」が刊行されて10数年も経過してから太田氏が反論したことをいぶかる人がいるが、それは誤解である。太田氏は「ある神話の背景」刊行後直ちに琉球新報に反論を書いた。琉球新報は沖縄タイムスと並ぶもう一つの沖縄の有力紙であるが、本土での入手は困難である。そこで、太田氏は歯科医の平良進氏を介して曽野氏に直接手渡すことにした。平良氏は、曽野氏がひめゆり部隊を扱ったノンフィクション「生贄の島」を書いたときにいろいろと世話をした人物である。またその後も平良氏は集団検診で渡嘉敷島に渡るときに、曽野氏に同行の便宜を与えるなどしており、曽野・平良両氏は懇意の間柄であった。したがって、曽野氏は太田氏の反論に目を通したはずである。しかし、曽野氏は返事を書かず、またどこかに反論を載せる事も無く、黙殺した。
さて、沖縄タイムス紙上の論戦で曽野氏は人格攻撃を行うが、言葉は佐高・曽野論争よりはるかに強烈である。いわく「こういう書き方は神話でないなら講談である」「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」、「素人のたわごと」、あげくは「太田氏という人は分裂症なのだろうか」である。
しかし、言葉の激しさに惑わされずに論点毎に主張を整理すると、太田氏が具体的・論理的に応答しているのに対し、曽野氏は主要論点をスルーしていることが分かる。例えば「赤松隊長の許可なく、重要な兵器である手榴弾が住民に配られることはあり得ない」という太田氏の主張に対して曽野氏は何も答えていない。
曽野氏は太田氏から突きつけられた難問をなんとか捌かねばならないが、単純にスルーしては敵前逃亡がバレてしまう。どうしたか?
まず、直接関係のない話を取りまぜて撹乱する。たとえば、ベトナム戦争のカメラマン、朝日新聞の毒ガスの誤報、日の丸と君が代の話を持ち出し、さらには、沖縄は閉鎖社会だと唐突に主張したりする。一方で、赤松大尉を「『悪人とは思えない』との印象を受けた」と曽野氏が言ったとする太田氏に対して、言ってもいないことを『 』で引用されては迷惑だと難癖をつける。人格攻撃にこれらのゲリラ戦術をからめ、「私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない」と止めの一撃を放つ。
この一連の作戦に先立ってひとつ仕掛けをしておく。冒頭に、エチオピアで見聞した悲惨な状況と人道支援の様子の紹介を入れたのである。こうした地球的な状況に比べれば、太田氏相手の論争はとるに足りない小さなことだとしてしまう。
事実は争わず、人格攻撃で「信用出来ない人物は相手にしない」と門前払いにする基本戦術は同じであるが、佐高・曽野論争に比べて、随分と手が込んでいる。その理由は、スペースである。佐高氏のコラム「政経外科」は週刊誌一頁分、曽野氏の反論も同じ分量にすぎない。紙幅が尽きたのでとすれば、手順を省略しても怪しまれない。これに対し、太田・曽野論争は一回の主張が新聞連載5回から9回分の本格的論戦であり、この遁辞は効かない。
さて、曽野氏の反論はどの程度有効だったのだろうか。差別用語にさほど敏感でなかった当時とはいえ、ここまで激しい人格攻撃は劣勢を隠すためと見る人は多いだろうし、さらには曽野氏の人間性に疑問を持つ人も出てくるだろう。しかし、声の大きい方、言葉の激しい方が正しいと思う人は少なからずいる。実際、この論争は、保守論壇では曽野氏が勝利したことになっている。評論家の山崎行太郎氏の言う「保守論壇の劣化」のひとつの例だろう。
太田氏と曽野氏、どちらの言い分に説得力があったかは、曽野氏が証人として出廷した裁判の場で明らかになった。
さて、沖縄タイムス紙上の論戦で曽野氏は人格攻撃を行うが、言葉は佐高・曽野論争よりはるかに強烈である。いわく「こういう書き方は神話でないなら講談である」「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」、「素人のたわごと」、あげくは「太田氏という人は分裂症なのだろうか」である。
しかし、言葉の激しさに惑わされずに論点毎に主張を整理すると、太田氏が具体的・論理的に応答しているのに対し、曽野氏は主要論点をスルーしていることが分かる。例えば「赤松隊長の許可なく、重要な兵器である手榴弾が住民に配られることはあり得ない」という太田氏の主張に対して曽野氏は何も答えていない。
曽野氏は太田氏から突きつけられた難問をなんとか捌かねばならないが、単純にスルーしては敵前逃亡がバレてしまう。どうしたか?
まず、直接関係のない話を取りまぜて撹乱する。たとえば、ベトナム戦争のカメラマン、朝日新聞の毒ガスの誤報、日の丸と君が代の話を持ち出し、さらには、沖縄は閉鎖社会だと唐突に主張したりする。一方で、赤松大尉を「『悪人とは思えない』との印象を受けた」と曽野氏が言ったとする太田氏に対して、言ってもいないことを『 』で引用されては迷惑だと難癖をつける。人格攻撃にこれらのゲリラ戦術をからめ、「私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない」と止めの一撃を放つ。
この一連の作戦に先立ってひとつ仕掛けをしておく。冒頭に、エチオピアで見聞した悲惨な状況と人道支援の様子の紹介を入れたのである。こうした地球的な状況に比べれば、太田氏相手の論争はとるに足りない小さなことだとしてしまう。
事実は争わず、人格攻撃で「信用出来ない人物は相手にしない」と門前払いにする基本戦術は同じであるが、佐高・曽野論争に比べて、随分と手が込んでいる。その理由は、スペースである。佐高氏のコラム「政経外科」は週刊誌一頁分、曽野氏の反論も同じ分量にすぎない。紙幅が尽きたのでとすれば、手順を省略しても怪しまれない。これに対し、太田・曽野論争は一回の主張が新聞連載5回から9回分の本格的論戦であり、この遁辞は効かない。
さて、曽野氏の反論はどの程度有効だったのだろうか。差別用語にさほど敏感でなかった当時とはいえ、ここまで激しい人格攻撃は劣勢を隠すためと見る人は多いだろうし、さらには曽野氏の人間性に疑問を持つ人も出てくるだろう。しかし、声の大きい方、言葉の激しい方が正しいと思う人は少なからずいる。実際、この論争は、保守論壇では曽野氏が勝利したことになっている。評論家の山崎行太郎氏の言う「保守論壇の劣化」のひとつの例だろう。
太田氏と曽野氏、どちらの言い分に説得力があったかは、曽野氏が証人として出廷した裁判の場で明らかになった。
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