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陸軍の暗号は安泰だったのか?


 日米開戦の外交暗号やミッドウェー海戦での海軍暗号が解読されていたことはよく知られている。これに対し、陸軍暗号は、こうした破綻が誰の目にも明らかなケースが無かったこともあって、安泰だったとみなされていた。

 しかし、それに疑問をいだかせる事件が起きた。1970 年代後半から公開された米国の機密資料に大量の解読電文が含まれていたのである。もちろん、安泰説が直ちに退場させられたわけではない。陸軍の暗号は解読されていたという論陣を張ったのが海軍兵学校出身で防衛研修所の戦史研究室長だった岩島久夫氏、受けて立ったのが、戦時中の陸軍の暗号担当者で戦後の暗号研究の指導者の一人であった釜賀一夫氏である。両者の論争は 1980 年代から 10 年以上も続いたが、議論が十分かみ合ったとは言えず、双方の最終となる主張を見ても対立点は解消しなかった。

 ところで、米国の機密解除資料を仔細に検討してみると、岩島氏の主張に理があることがわかる。岩島氏が指摘したように解読電文に戦術的・戦略的に重要な情報を含むものがあり、さらに、岩島氏は触れていないが、解読の技術資料(解読作業に携わる人を対象とした日本陸軍の暗号解読のための教科書)が存在するからである。

 尤も釜賀氏の安泰説にも説得力はあった。彼の主な論拠は 2 つある。ひとつは米軍関係者が「陸軍の暗号は解読できなかった」と言ったというもの、もうひとつは採用した方式-乱数を使い捨てる-から原理的に解読されるはずがないというものである。暗号解読のような国家的機密事項について米軍関係者が嘘をつくことは当然有り得るので、前者はそもそも安泰説の根拠として薄弱であるが、後者は検討の余地がある。

 この検討には日本軍の暗号運用の実態を知る必要があるが、米側の資料だけでは今ひとつはっきりしない。一方、日本側の一次資料は終戦直後の組織的隠滅工作の為ほとんど現存しないという困難がある。しかし、幸いにも隠滅工作を免れて旧軍資料の収集家の手に渡っていたものが幾つかあった。それらは最近復刻されたが、その中に鍵となる情報が含まれていた。新情報は岩島説を支持し、岩島説が日米双方の資料で確認される事になった。

 陸軍暗号の安泰説の背景には、陸軍暗号が海軍暗号よりレベルが高かったことがある。海軍は破られたかもしれないが、陸軍は安泰だったと信じられる程度に両者のレベルには差があった。陸軍出身の釜賀氏の評価だから割り引く必要があるが、外交暗号が小学生、海軍暗号が小学校6年生、陸軍暗号が大学生レベルだったと言われる。

 海軍も陸軍も、語句に数字コードを割り振り、それに乱数を足して秘匿する、いわゆるコード・乱数式の暗号である。陸軍のレベルが海軍より目に見えて高くなったのは、開戦から1年経過した頃にコードと乱数の足し算規則を変更する強化策を導入してからである。規則を2週間という短期間で切り替えるので解読されるはずがない、と陸軍は考えた。

 陸軍の誤算は、強化策の導入後約2ヶ月から半年ぐらいで解読方法を発見されてしまった事である。この結果、2週間という短期間での規則の切り替えは、殆ど効を奏さなかった。解読には日本軍の失策もあったが、連合軍解読陣の優秀さをほめるべきだろう。残念ながら、日本軍は解読されたことに敗戦までついに気づくことはなかった。

 太平洋戦争は補給戦に敗れたとも言われる。これは戦線を物理的に拡大しすぎたためと通常解釈されている。しかし、直接的には暗号解読に原因を求めるべきだろう。補給に使う船舶が潜水艦の待ち伏せ攻撃で片っ端から沈められたからだ。この船舶輸送の担当は陸軍であった。

 なお、陸軍の暗号は戦後も命脈を保ち、自衛隊暗号や恐らくは外交暗号としてかなりの期間に亘り使用されたと見られる。戦時中に攻略された暗号を、そうとは知らず使い続けていた訳だから、いろいろ不都合があったことは予想される。例えば、貿易摩擦に伴う日米通商交渉で、理不尽とも見える米国の押しに屈したように思われる。力関係でやむをえなかったのかも知れないが、暗号解読で手の内を読まれていた可能性も否定できない。


 本ブログの詳しいことは「日本陸軍暗号の敗北 - 鉄壁の暗号はなぜ破られたか」(紫峰出版2015)に書いた。ご高覧いただければ幸いである。

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技術系の某役所を退職後、あり余る時間を使い、妄説探索の旅へ。理系老人の怪刀乱魔。

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