曽野話法 - 砂上論法を斬る(7)
得意技を封じられると(3)
曽野綾子氏は新潮45の4月号に「『たかが』の精神」と題するコラムを寄せた。荻上チキ氏との対談で、書くかどうか曖昧な返事をした反論である。
曽野氏の論戦相手は2グループある。ひとつはペコ南アフリカ共和国大使、もうひとつは荻上氏ほかの有象無象の批判者達である。曽野氏の得意技は「事実は争わず、人格攻撃する」であるが、曽野氏といえどもさすがに南ア大使にこの技を使う訳にはいかなかった。
新潮45のコラムに紹介されている南ア共和国大使館でのペコ大使とのやり取りは次のようである。
まず、曽野氏がコラムに書いた「南アでアパルトヘイトの撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出した」というエピソード。これは事実ではないとする南ア共和国の永住者のコメントを本連載(1)で紹介したが、ペコ大使にもそんな例はあり得ないとピシャリとやり込められ、曽野氏は認めざるを得なかった。砂上論法は事実を争うと敗れる。
曽野氏は防衛線を「たかが作家の書くことですから、本気になさることはないのです」と大幅に後退させた。セルフハンディキャッピングといわれる手法である。これはもとは、たとえば試験前に勉強する時間がなかったと言うなど、自らにハンディキャップを課して失敗した時の言い訳を用意し、成功した時の満足感を高める行為をさす。この手法は相手の攻撃を防ぐことに転用出来る。
「たかが作家の書くことですから」と下手にでられて、「たかが作家風情がつまらぬ事を書くんじゃない」とは中々言いにくい。「作家」と言えば曽野氏以外の多数の優れた人が直に脳裏に浮かぶから、なおさら言いにくい。セルフハンディキャッピングで自らを安全地帯に置き、人格攻撃を繰り出すのがいつもの曽野氏であるが、南ア大使を相手にしてはここまでであった。
「私の作家としての半世紀はこの差別語狩りと闘う事も大きな心理的仕事だった」(産経コラム2011/12/23)と大見得を切っていたが、南ア大使には、「もしお望みならば南アのことは以後書かないようにいたします」とまで卑屈な態度をとる。この変わり身の速さは一驚に値する。
新潮45のコラムで興味深いのは「差別でなく区別だ」という主張に全く触れていない点である。じつは、この主張はフジテレビでの対談で、大使に「完全に間違っていると思う」と一蹴されている。一過性のテレビ対談ならともかく、論説ではとても取り繕えないと判断したのだろう。
南ア大使の認識が国際的な常識なのである。実際、国際法上、人種に基づく区別は差別と定義されている。ちなみに、人種差別撤廃条約の第1条の1は
となっている。この程度の常識も持たない人物が、「アフリカの貧困」、「アフリカの支援」などと声高に叫んでいる現状を深刻に受け止める必要があるのではないか。
曽野氏に差別する意図はなかったことは了とするも、意図した事を曽野氏はきちんと文章化できなかったわけである。そんな曽野氏に日本人作家の代表面されて、作家の書くものはいい加減なんですと南ア大使に言われたのでは、世の作家諸氏はたまらないだろう。
完敗に終わった南ア大使との論戦に比して、荻上氏ほかの有象無象の批判者に対する曽野氏の人格攻撃は冴えわたる。
まず「たかが作家」の個人的意見の表明に謝罪と記事の撤回を要求する事にあきれてみせる。60年間も日本語の修行を続けて来た曽野氏の真意を、今時の記者が汲み取れるはずも無いので、問いはすべて文書で求め、文書で回答する。インタビューの申し込みには、「水の出ないマンションにいたとしたら、住み続けるかどうか」という問いに答えたもののみ応じるという高飛車な態度にでる。「まず水が出るように試みる。水がないと自分はいられないが、それは人種差別の故ではない」と答えた荻上チキ氏は、「人道的でないといわれることを非常に怖がっている人」と貶める。曽野氏が安倍首相のアドバイザーだったとするロイター電を始めとする記事は、考えられない初歩的ミスと斬り捨てる。匿名で批判をするものは卑怯者とこきおろし、曽野氏に挨拶もしないような礼儀知らずのネット住人のイジメにあったと弱者ぶる。
しかし、匿名の人物だけが曽野氏を批判した訳ではない。本連載の第1回で紹介した南アに永住する吉村峰子氏のように、実名の個人も曽野氏を批判している。そうした事実は一顧だにせず、一方的に人格攻撃をするのが曽野話法=砂上論法の特徴である。
曽野綾子氏は新潮45の4月号に「『たかが』の精神」と題するコラムを寄せた。荻上チキ氏との対談で、書くかどうか曖昧な返事をした反論である。
曽野氏の論戦相手は2グループある。ひとつはペコ南アフリカ共和国大使、もうひとつは荻上氏ほかの有象無象の批判者達である。曽野氏の得意技は「事実は争わず、人格攻撃する」であるが、曽野氏といえどもさすがに南ア大使にこの技を使う訳にはいかなかった。
新潮45のコラムに紹介されている南ア共和国大使館でのペコ大使とのやり取りは次のようである。
まず、曽野氏がコラムに書いた「南アでアパルトヘイトの撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出した」というエピソード。これは事実ではないとする南ア共和国の永住者のコメントを本連載(1)で紹介したが、ペコ大使にもそんな例はあり得ないとピシャリとやり込められ、曽野氏は認めざるを得なかった。砂上論法は事実を争うと敗れる。
曽野氏は防衛線を「たかが作家の書くことですから、本気になさることはないのです」と大幅に後退させた。セルフハンディキャッピングといわれる手法である。これはもとは、たとえば試験前に勉強する時間がなかったと言うなど、自らにハンディキャップを課して失敗した時の言い訳を用意し、成功した時の満足感を高める行為をさす。この手法は相手の攻撃を防ぐことに転用出来る。
「たかが作家の書くことですから」と下手にでられて、「たかが作家風情がつまらぬ事を書くんじゃない」とは中々言いにくい。「作家」と言えば曽野氏以外の多数の優れた人が直に脳裏に浮かぶから、なおさら言いにくい。セルフハンディキャッピングで自らを安全地帯に置き、人格攻撃を繰り出すのがいつもの曽野氏であるが、南ア大使を相手にしてはここまでであった。
「私の作家としての半世紀はこの差別語狩りと闘う事も大きな心理的仕事だった」(産経コラム2011/12/23)と大見得を切っていたが、南ア大使には、「もしお望みならば南アのことは以後書かないようにいたします」とまで卑屈な態度をとる。この変わり身の速さは一驚に値する。
新潮45のコラムで興味深いのは「差別でなく区別だ」という主張に全く触れていない点である。じつは、この主張はフジテレビでの対談で、大使に「完全に間違っていると思う」と一蹴されている。一過性のテレビ対談ならともかく、論説ではとても取り繕えないと判断したのだろう。
南ア大使の認識が国際的な常識なのである。実際、国際法上、人種に基づく区別は差別と定義されている。ちなみに、人種差別撤廃条約の第1条の1は
『人種差別』とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
となっている。この程度の常識も持たない人物が、「アフリカの貧困」、「アフリカの支援」などと声高に叫んでいる現状を深刻に受け止める必要があるのではないか。
曽野氏に差別する意図はなかったことは了とするも、意図した事を曽野氏はきちんと文章化できなかったわけである。そんな曽野氏に日本人作家の代表面されて、作家の書くものはいい加減なんですと南ア大使に言われたのでは、世の作家諸氏はたまらないだろう。
完敗に終わった南ア大使との論戦に比して、荻上氏ほかの有象無象の批判者に対する曽野氏の人格攻撃は冴えわたる。
まず「たかが作家」の個人的意見の表明に謝罪と記事の撤回を要求する事にあきれてみせる。60年間も日本語の修行を続けて来た曽野氏の真意を、今時の記者が汲み取れるはずも無いので、問いはすべて文書で求め、文書で回答する。インタビューの申し込みには、「水の出ないマンションにいたとしたら、住み続けるかどうか」という問いに答えたもののみ応じるという高飛車な態度にでる。「まず水が出るように試みる。水がないと自分はいられないが、それは人種差別の故ではない」と答えた荻上チキ氏は、「人道的でないといわれることを非常に怖がっている人」と貶める。曽野氏が安倍首相のアドバイザーだったとするロイター電を始めとする記事は、考えられない初歩的ミスと斬り捨てる。匿名で批判をするものは卑怯者とこきおろし、曽野氏に挨拶もしないような礼儀知らずのネット住人のイジメにあったと弱者ぶる。
しかし、匿名の人物だけが曽野氏を批判した訳ではない。本連載の第1回で紹介した南アに永住する吉村峰子氏のように、実名の個人も曽野氏を批判している。そうした事実は一顧だにせず、一方的に人格攻撃をするのが曽野話法=砂上論法の特徴である。
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